
現在、私が主催している読書会がある。
読んでいる本は、稿本天理教教祖伝。
4人でスタートした読書会は、参加者の方がひとり誘ってこられて現在5人。
毎月2回、オンラインで開催している。
コロナ禍中に、SNSでつながった教友主催の教祖伝読書会に参加していた。
人とつながる場もありがたかったが、なによりも大好きなおやさまを語る場が楽しかった。
「これ、所属教会でできないかな…」という思いは少なからずあったが、教えを求める教友同士だから成り立つ場なんだと思い込んでいた。
その読書会に、先輩を誘ってみると「西岡が楽しいというなら参加してみる」と、参加されるようになった。
ゴリゴリの布教師で、本を読んでおられるイメージが全然なかったので、参加されたことにちょっと驚きもあった。
この先輩にとって、教祖伝の読書会はとても良かったようで、しばらくすると奥さんも誘ってこられ、夫婦で参加されるようになった。
しばらくして、先輩の教会で読書会が始まったことを聞いた。
「教会で開催したらどうなるんだろう?」
興味はすごくあったので、先輩の教会で開催されている読書会の成り行きを見守っていた。
聞こえてくる話は、どれも興味深いものばかり。
教会でのひのきしんの時間、読書会メンバーが集まるとおやさまのお話に花が咲く。
笑顔を見たことがなかった人が、いつも笑顔に。
ついには、教人資格講習会に志願する人まで出てくる始末。
「教会でもできるんだ… !」
確信を得たので、いよいよ所属教会でやってみよう、と決めた。
しかし、である。
お恥ずかしいことに、所属教会で信仰を深く掘る話をした経験があまりない。
御用の話はしているけども。
なので「教祖伝の読書会をしましょう」と口にすることが、なかなかに小っ恥ずかしい。
機を伺いつつ「今!」というタイミングで声をかけてみると好感触だったので、勢いそのままに、心当たりのある人に声をかけると、全員快諾。
ということで、昨年2月より自分主催の教祖伝読書会が小さく始まった。
あえて小さく始めた。
おやさまの「狭いのが楽しみやで。」「小さいものから理が積もって大きいなるのや。」とのお言葉を信じて。
案ずるより産むが易し。
いざ初めてみると、参加者一同、毎度々々新しい発見と気づきの連続。
教祖伝を輪読し、感想を述べ合っているだけなのに。
「こんなこと知らなかった」「おてふりの感覚が変わった」「なぜかモヤモヤが解消された」などなど、ポジティブな感想ばかり。
教祖伝にある
「教祖にお目に掛る迄は、あれも尋ね、これも伺おうと思うて心積りして居た人々も、さてお目に掛ってみると、一言も承わらないうちに、一切の疑問も不平も皆跡方もなく解け去り、たゞ限りない喜びと明るい感激が胸に溢れ、言い尽せぬ安らかさに浸った。」
という、先人が味わった感覚を追体験しているような気分になる。
誰かが教えるわけでもなく、ただ、おやさまを語り合う。
講って、こんな感じだったのかな?などと、妄想が膨らむ。(西岡寛麿)