
Yさんは、信仰者として、また女性としても私の目標で、大好きな人です。
Yさんは、人のために尽くすことを惜しまず、いつも御用にいそいそと励んでいました。
「教えの実践」を、姿で教えてくれた人でした。
私はそんなYさんを心の底から尊敬し、慕っています。
5年ほど前、Yさんは交通事故で出直しました。
おぢばで6年間もお育て頂いた私ですが、突然のお別れに、こう思いました。
「神様本当におられますか?どうしてYさんのような人を、護って下さらないのですか?」と。
悲しすぎる別れと、自分の信仰のもろさに心が折れてしまいました。
そんな時には、おぢばで出会った恩師の言葉を思い出します。
「苦しい時は神様にすがったら良い。たすけてくださいって泣き付いたらいい。私達の先人はそうやってたすけて頂いて、私たちまで信仰がつながっているんだ」というものです。
絶対に忘れまいと、あわててメモに書き留め、今までお守りのように大事にしていた言葉です。
なぜか、神様には、「自分のことはお礼だけを申し上げ、人様のたすかりを願わなければならない」という風に思い込んでいたからです。
Yさんの出直しという大きなふしに直面し、初めて自分のたすかりを願う日々を重ねました。
ある日、久しく会っていない友人からLINEが届きます。
その友人曰く、私の顔がぱっと浮かんだのだそうです。
そこで、自分の思いを打ち明けました。
すると、あるおさしづ(※)が返ってきたのです。
そのおさしづの中では、「この道というのは、善い人に障りをつけて広がった道であり、ほこりの人の中からつけた道じゃない」とあり、更に「それは皆をたすけるため」というように諭されていました。
友人は「今は分からなくても良い。いつか分かりたい、分からせて欲しいと思い続けることが、思召に対しても、出直した人に対しても出来ることだと思います」と一文を添えてくれました。
心の中の暗い霧が晴れていくのを感じました。
Yさんの出直しを無駄にしないように、自分の中で悟りを付けて、私自身もたすからないといけないなと思えたのです。
こんなに神様を疑い、恨むような気持ちまでぶつけてしまった、そんな私にも、友人を通して温かい親心を知らせて下さるのです。
「あー、この神様は温かいな」とコロッと気持ちが変わりました。
なんて単純で変わりやすい心でしょうか。
それからYさんの周りでは、益々の栄えをお見せ頂いています。
少し道から離れていた親族も、頻繁におぢばがえりをするようになったりと、不思議を目の当たりにしています。
私の考える遥か何倍も親心は大きく、先を見据えておられるのだと実感せざるを得ません。
親の思いを知らないがために、私の心は倒れました。
ですがその中にも、自分のたすかりを願い、神様にすがり、思案を巡らせる中に、不思議と答えが頂けました。
まるで教祖に手を引いて頂いているように・・・。
Yさんの出直しを通して、私がたすけて頂いた話が、またどなたかの目にとまり、たすかりに繋がりますように。
祈りを込めて記します。(さみっちゃん)
※M33・5・17「松村吉太郎目の障りに付願」