
教祖百四十年祭まで間もなくとなった今、思い出すのは、三年前の諭達ご発布の際の神苑の光景だ。
私は、中庭の、教祖殿の上り口あたりで我が子が砂利をいじって遊ぶのを見守りながら、そのときを得た。
ご身上と伺っていた真柱様の御声がスピーカーから聞こえてくる。
しかし、大祭月ということもあって神苑はたくさんの人で溢れ、喋り声や足音、また子どもの喚声が飛び交い、どうも聞こえづらい。
音の雑踏をかき分けるように耳を澄ますと、か細くはあるが確かに真柱様の御声が響いている。
少しお話なさっているようで、まだ諭達を読み上げておられないようだ。
依然として神苑は音で溢れている。
私は、すべて聞き取れなくても仕方ないなぁとなかば諦めながらその場に佇んだ。
そうして、諭達のご発布があり、一文一文を丁寧に読み上げられる御声に接したわけであるが、そのとき、私はあることに気づいた。
あれ、さっきより聞こえるぞ、と。
放送通信課の手慣れた音量調整によるものかと感心したが、どうもそれだけではないようだ。
音が消えている。先ほどまで御声に交じっていた話し声も足音も、子どもの喚声すら聞こえない。
あたりを見回してみると、多くの人が頭を垂れ、固唾をのんで拝聴されている。
不思議なのは子どもの喚声も止んでいることだが、とにもかくにも、その音のない光景に、私は、すごい瞬間に立ち会っているなと目を見張ったのである。
その日の晩、気心の知れた友人らと飲んでいるときにその話をした。
すると、その場に居合わせた友人が「あれは神秘体験だったのかもしれないね」と述べてくれた。
大学で教鞭をとる友人らしい発言だが、「神秘体験」という言葉が妙に新鮮だった。
奇跡という言葉はどこか安易で、また、教語で意思疎通のできる私達には、あまり馴染みのない概念ではあるが、私は、あの瞬間はそのように表現することができ、そしてまた、そこに立ち会えたことに興奮した。
私達は、教祖の言葉に触れ、またそれを身に治めようと日々歩んでいるが、これを無機質な言い方にすれば、テキスト(text:言葉・文章)を理解し、共鳴し、また伝播させていく現象ともいえる。
諭達に込められた真柱様の思し召しも、テキストを介して伝えられていくことを思えば、あの場に居合わせた万単位の人間が同時に、そのテキストを共有しようとする行為は神秘的といって差し支えないだろう。
ところで、テキストを共有する(con-)ことを英語でcontextという。
日本語では文脈と訳される。
私達の相互理解には、この文脈の理解がどうしても必要である。
都合よく切り取られた政治家の発言(テキスト)をどうお思いになるか。
主体の文脈から切り離されたテキストの一人歩きの哀れなこと。
少なくともあの場に居合わせた私達は、一人歩きではない。
真柱様とともにテキストを共有し、文脈を理解してこその音のない光景である。
いや、もっと言うならば、私達は、文脈になったのだ。
尊い思し召しの外にいるのではなく、神脈ともいえる隆々とうごめく文脈の内側にいることを私自身、肝に銘じたい。(山田潤史)