
おたすけとなれば、自分の用事はいったん手をとめてすぐ向かうものだ、とどこかで教わった記憶があります。
たとえば、食事中に電話が鳴って、誰かがたすけを求めてきた。
緊急であれば、箸を置いてすぐに駆けつけるでしょう。
そのように、おたすけの実践の第一歩は自分の手をとめることだ、と。
そう思えば、私はこの年祭活動の中で、果たしてどれほど自分の手をとめてきたのでしょうか。
もしかすると、おたすけのチャンスが目の前にありながらも、「御用」という名の「自分の用事」に終始して、一度も手をとめてこなかったのではないかとさえ感じます。
たとえば、朝づとめのとき、お地を歌いながらも、頭の中では別のことばかり考えて、気が付いたら「あしきをはろうて」の21回目が終わっていたこと。
結局は、頭の中で自分の手をとめてはいなかったのではないでしょうか。
おつとめの手を振るためには、思うよりもまず駆けつけるように、自分のことは少し脇に置いて、神様を見つめなければならないと感じます。
飯降伊蔵先生の入信のきっかけは、妻の産後の患いでした。
奥さんの病状がいよいよ悪くなったとき、伊蔵先生は心配のあまり、大工仕事も手につかなくなったそうです。
自ら手をとめたのではなく、苦しくて「手をとめざるを得なかった」。
そのような人の苦しみに向き合うには、こちらも生活の手をとめなければなりません。
伊蔵先生に対する教祖やこかん様の対応を見ると、きっとそういうことなのではないかと思案します。
年祭活動の中で、なんとか自分の生活のなかで時間を作ってチラシ配りにいこうと戸別訪問に歩きました。
しかし、いざ、おたすけを必要としてそうなご家庭に出会っても、結局は「チラシを配る」という「自分の用事」を止めることができず、玄関先で少し話をしただけで、チラシを配って立ち去ろうとします。
私は、一体何のために、あんなにも頑張って時間を作ったのか…。
もちろん日々の生活を守ることは大切です。
しかし、きっと「手をとめること」さえできれば、「チラシを配る」といった特別な行いをしなくても、生活の中のどんな場面でも、おたすけはできるのかもしれません。
玄関先でも日々の生活の中でも、まずは相手が立ち止まっている場所にこちらも一緒に立ち止まる。
そうしなければ、本当の意味で相手の気持ちは受け止められず、伝えるべきことも伝えられないと最近痛感しています。
思えば、私自身が、手をとめざるを得なかった日々をたすけていただきました。
就職も、人間関係もうまくいかず、信仰の歩みすら止まっていたあのとき。
ハリネズミのような私に、勇気をもって声を掛けてくれた人がいました。
みんな自分のことをいったん置いといて、私のもとへ駆けつけてくれました。
きっと教祖が遣わした人々だったのでしょう。
まずは一日一回でも自分の生活の手をとめて、そのご恩をしっかり受け止めたいです。
そしてそのぶん、おたすけに向き合いたいです。(nibuno)