応仁の乱により、都も戦渦にまきこまれ雅楽も絶滅の危機に襲われます。
楽家の人々も命の危険に晒されることになりました。
平安末期から、雅楽は法会や祭礼に付随して厳島神社や鶴岡八幡宮などで奏楽されていましたが、都を落ち延び、知る辺を頼って地方に避難した楽人によって更に雅楽が地方に伝わっていったといわれています。
また、雅楽の絶滅を危惧した人による「楽書」が誌されたのもこの時期でした。
豊原統秋による「體源抄」や狛近真の「教訓抄」。
時代は少し下りますが、安倍季尚の「楽家録」など後世に残る雅楽書が誌されました。
応仁の乱で衰退した雅楽を復興するにあたって正親町天皇が天正年間に天王寺の楽人5名を、後陽成天皇が文禄年間に南都の楽人3名を召して三方の楽所の伝統が生まれました。
これは「多門院日記」に豊臣秀吉が後陽成天皇を招いた、聚楽第行幸で「路次ニワ南都京都・天王寺之楽人音楽ヲ奏了」と記されています。
また、織田信長の家紋「木瓜」は今も「裹の幕」(雅楽の演奏会で舞台の後ろに張られる幕)に使われています。
織田信長と雅楽との繋がりは不明ですが、何らかの関係があったのでしょう。
徳川幕府が開かれ、雅楽の世界も落ち着きを取り戻しました。
江戸城内にある紅葉山の家康公の廟に奉仕の楽人が要請され、三方楽所から8人(京都方2人、奈良方3人、天王寺方3人)が下向している。
また、東照宮の奉仕や演奏の機会が増えて行きました。
大名の中にも雅楽に関心を持って保護する人も出てきて明治まで続きます。
寛文5年(一六六五)に家康の五十回忌が行われ、三方の楽人が下向して奏楽をつとめた。
その際に幕府から二千石の楽人領が与えられました。
その配分をめぐって三方及第という試験制度が始められた。といわれています。
これは、三年毎に行われ、幕末まで続けられました。