三方及第について、あと少し書いてみます。
「舞楽の両道大唐の物といえども断絶してはいけない。
日本で相続のことは誇りにすべきこと、禄が微にして相続なりがたきによって加増して今年より領地二千石を渡す」と加増され、この中に芸料二百石があり、上芸、中芸を決めるため、試験が行われた。
試験は、寛文5年(一六六五)から慶應元年(一八六五)まで3年ごとに行われた。
三管(笙、篳篥、笛)と曲は唐楽と限られていたようです。
試験で演奏する曲や他の演奏者の組み合わせは、当日に決められるため、望手(受験生)は大変であったろうと思われます。
判定は入札(投票)で決められ、京都方の望手には天王寺方と南都方が入札し、天王寺方の望手には京都方と南都方の楽人が入札するという方法で行われ、二百年間で満票を得たのは、東儀季寿、豊原倫秋、林広守などわずか数名であったといいます。
三方及第の制度は、楽人のレベルを保つ一役を担ったことにもなったものと思われる。
さて、江戸時代には武士の好んだ芸事は能楽といわれていますが、雅楽を愛好した大名もいました。
代表的なのは、彦根藩十二代の井伊直亮と紀伊藩十代の徳川治宝である。
そして、慶應3年(一八六七)大政奉還があり、翌年、江戸城に遷都され明治時代が始まりました。
明治3年、宮内省太政官のなかに雅楽局が設置され、京都、南都、天王寺と紅葉山の楽人が一同に集められました。
後の宮内庁式部職楽部です。
楽人が纏まとめられ、一つになったことにより曲目と奏法を統一する必要が生じ、楽譜が編集され統一されました。
これが「明治撰定譜」といわれるものです。明治3年と20年に撰定され9年と21年に編纂されました。
現在演奏されている曲は、この「明治撰定譜」に基づいたものです。
なお、撰定からはずれた曲は「遠楽」と言われています。
こうして、雅楽は今日まで伝わってきました。