【信仰随想25】教祖百四十年祭に向けて 教区主事 駒谷欣一

本年は、教祖百四十年祭活動の仕上げの年、最後の一年であります。 

私は教会長となって三度目の年祭を迎えますが、私の信仰の土台を築けたのは福岡での単独布教の頃だったと思います。

その八年間で一つだけ分かったことがあります。

それは、「棚からぼた餅」は絶対にない、ということです。 

単独布教といえば聞こえは良いですが、いろんな日があります。

絶対たすかってもらえると信じておたすけさせて頂いた方が出直され、そのショックから自分自身がとても無力に思えて何もする気が起こらず、三日間ほど街の中をただ歩き続けていました。 

そのような状況で、私の目の中に入ってくるのは一生懸命働いている人の姿でした。

躍動的に働いている方が、自分にはまぶしく見えたのです。

「この人達は社会の一員として今を精一杯生きておられるのに、今の自分はいったい何をしているのだろう。この社会に必要とされているのだろうか。」

そのような考えが頭の中を駆け巡り、悩み落ち込んでしまい、その後一日中布団から出られない日が二、三日続きました。 

そんな時は、悪いことばかりが頭の中を駆け巡り悩んでしまい、外に出て行く意欲、勇気がなくなります。

そして何もせず、ただじっと息をひそめて家に閉じこもっていました。 

そのような状況ですので、全く人との出会いはなく、当然「人様に喜んで頂ける事」は何も起こって来ません。

一日中、家でじっと寝ていても何も始まりません。

そこで、自分を苦しめている我が身思案の心を外( 人救け)へと向けるために、弱い自分に鞭を当てて、無理やり家から出て行きます。 

そうして外へ一歩出ると、不思議なことに自分の意志に関係なく、色々なことが起こって来ます。

歩いている私の前でお婆さんが急に転んだり、自転車のチェーンがからまって困っている人などと出会ったりしたのです。

そのような出会いの中から元気や勇気を与えて頂き、また勢いをもって「にをいがけ」「おたすけ」に廻れるようになっていきました。 

真柱様は、「三年千日の期間は、動かせていただくことが大切」と仰せ下さいます。

ただ今の旬は、もう理屈を言っている時ではないと思います。

外に出る、人と関わる、ひのきしんをさせてもらう等々、何からでも動かせて頂いて、たすけの躍動の時として、教祖百四十年祭活動の仕上げの年を、最後の一年を、一人ひとりが悔いのないようにつとめ切らせて頂こうではありませんか。