ここで雅楽を専門職業とする楽家についても書いておかなければならないでしょう。
大同二年(807)に近衛府が設置され、それまでは貴族の教養として、或いは遊びとしての雅楽であったものが、官人と雅楽が結びつくようになり、清和天皇の貞観三年(861)には近衛府の楽人による奏楽がなされていて、近衛府の中にも雅楽が得意とする人が出てきて、楽人の集まり所として楽所が形成されてきたと考えられます。
さらに、そうした人々の中に、雅楽を専門的に世襲する楽家が現れてきました。
また、神社や仏閣を中心に雅楽を奉仕して来た南都や四天王寺にも楽所がつくられ、代々相承していくこととなります。
京都方楽家
多(右・神楽)、豊原(笙=後に豊と改姓)、大神(笛=後に山井と改姓)、安倍(篳篥)
南都方楽家
上(笛・舞)、辻(笙・舞)、東(笙・舞)、奥(笛・舞)、窪(篳篥・舞)、久保(篳篥・舞)、芝(笛・舞)
四天王寺方楽家
東儀薗(篳篥・舞)、薗(笙・舞)、林(笙・舞)、岡(笛・舞)
等ですが、まだまだおられますが、近年、私たちに馴染みの深い方々の楽家を書きました。
のち、正親町天皇 後陽成天皇の時代にこの京都、南都、四天王寺の楽人を京都によび三方の楽所が出来ました。
明治政府が出来たとき、東京に招集されて宮内庁式部職の楽人となってゆくのです。
また、徳川家光に招聘され江戸城の紅葉山にて奉仕してきた紅葉山楽人(三方楽所出)も宮内庁式部職に組み入れられました。
世の中は、貴族社会から武家社会にと変わって行きます。
平家が政権を取り、続いて源頼朝が鎌倉に幕府を開き、足利、室町と変遷し、応仁の乱が起こり、戦国時代へと移って行きます。
雅楽はどのような道を進むのでしょうか。