
「大和豊年米食わず」という言葉があります。
これは「大和の天候が順調であれば他の地方は雨が多く凶作となり、他が豊作であれば大和は干ばつに苦しむという、大和平野の農業用水の不足をあらわしています」。(『吉野川分水』奈良県食農部農村振興課、令和七年発行)
昔から降雨量の少ない大和、とくに国くんなか中と呼ばれる奈良盆地の平地部ではつねに水不足に悩まされてきました。
溜め池をつくり、井戸を掘り、限られた河川の水を分けるなどして工夫をこらしてきましたが、それでも水争いは絶えなかったようです。
かつてはおぢば周辺にも多くの溜め池がありました。
『稿本天理教教祖伝』に登場する宮池(31頁)もその一つです。
また、天理市域では布留川の流れを幾つもに分けて限られた用水を分かち合ってきました。
現在の天理市豊井浄水場の近くにある「一ノ井」はもっとも重要な分水点です。
ここから布留川は本流と北流に分かれます。
北流は「布留」の交差点付近で西に直進する川筋(三島川)と、北に向かって「豊井町」交差点あたりで西に折れる川筋に分かれます。
後者が北大路の北側歩道に沿って流れている水路で、この水路はさらに枝分かれしながら西に進みます。
前者は本部第5食堂あたりからそのまま西に直進する川筋と、北に折れて本部駐車場北側に沿って流れる水路に分かれます。
本部駐車場の北西隅には水門があり、ここでさらに枝分かれして本部境内地の地下を潜って西に進みます。
おやさとやかた西右第2、4棟吹き抜けを流れている水路などがその川筋にあたります(現在これらのほとんどは鉄板やコンクリートで覆われています)。
かつて中山家の中南の門屋の前を流れていた川、屋敷裏(北側)を流れていた川筋などがこれらの水路にあたります。
なお、布留川はおやさとやかた東右第4棟付近で、本流とおやさとやかた南右第3棟の西側を巡り守目堂町、田町方面に流れる川筋(田村川)に分かれ、さらに枝分かれしていきます。
貴重な水を分かち合う工夫がこれら複数の川筋からも偲ぶことができますが、それでも絶えない水争いを防ぐ知恵の一つが「番水」制度でした。
川筋の分岐点に「番札」を立て、水を配分する順序を示しておきます。
その番札が流れるような大水があったときは、一定期間に限りその順番にかかわらず誰もが自由に取水できるという仕組みです。
『教祖伝』第九章「御苦労」に出てくる「番破れ」(262頁)とはこのことです。
綿の栽培は、日本では戦国時代以降に各地で行われるようになりますが、大和国が比較的早い段階から栽培面積を広げた背景には、こうした慢性的な用水不足が背景にあったと考えられています。
綿の栽培には稲作ほどの水を必要とはしなかったからです。
5月3日に播いた綿のタネは、その後ひと月を経て、10㎝ほどに成長しました。
H.A.M.A. 木綿庵(ゆうあん) 梅田正之