
現代の日本において、「同居」という言葉はどこか懐かしい響きすら持つようになりました。
核家族化が進み、個人のプライバシーが何よりも優先される現代社会。
自分のペースを守り、誰にも干渉されずに暮らすことは、ある意味で「現代的な豊かさ」の象徴のようにも語られます。
しかし、天理教の教会の門をくぐれば、そこには世間の潮流とは少し異なる時間が流れています。
三世代、時には四世代が一つ屋根の下で、団らんを重ね、時には忙しく過ごしています。
世間では「珍しいね」と言われるような大家族の姿が、お道の中では今もなお、ごく自然な日常として息づいています。
ただ、この「自然な日常」の裏側に、どれほどの葛藤や努力が隠されているか。
同居とは、決して美しい理想だけで成り立つものではないことを私たちは知っています。
親世代にとっては、長年築き上げてきた慣習の積み重ねのうえに、新しい感性や文化が入り込んでくる戸惑いがあります。
それはときに予想の斜め上をいく場合もあるでしょう。
子世代にとっては、常に「誰かの視線」がある中で生活する窮屈さや、子育ての方針、台所の使い方などの細かな価値観のズレに、心がささくれ立つこともあるでしょう。
ふとした瞬間に、「もし別々に暮らしていたら、もっと楽だったかもしれない」という思いが頭をよぎることも、「一人の時間が欲しい」と溜息をつきたくなることも、決して不思議なことではありません。
お互いに気を使い、言葉を飲み込み、時には衝突しながら日々を送る。
それは決して信仰が足りないからではなく、真剣に「家族」という姿に向き合っているからこそ生じる、人間同士の波の干渉作用と言えるかもしれません。
現在、日本の至る所で「つながりの希薄さ」が社会問題として叫ばれています。
その中で、あえて「共に生きる」という複雑で、面倒な道を選んでいる(選ばざるを得ない⁉)私たちの姿は、実に希少な存在と言えるでしょう。
日々、小さな折り合いをつけながら、一歩ずつ歩み寄って築き上げる家族の風景。
それは、目に見える成功や数字を追い求める現代の人々が忌避(きひ)するコスパの悪いものなのでしょう。
便利さや快適さが簡単に手に入るこの時代に、あえて不自由を伴う「家族」を選び、日々を繋いでいること。
それはもはや、一つのライフスタイルを超えた、現代における「奇跡」と呼べるのではないでしょうか。
実を言えば、三世代で暮らしている私たち家族も順風満帆の日々ばかりではありません。
いろいろなときがあります。けれど、周囲からはとても羨ましがられています。
どうやら私たち家族は、自分たちが「気づかない幸せ」を得ているようです。
もしかすると、それは奇跡の産物なのかもしれません。
奇跡はそんなに簡単に起こるものではありません。
何百回、何千回、何万回の積み重ねの賜物こそが、数ある奇跡の大半を占めるでしょう。
無理して奇跡を起こさなくても(同居しなくても)いいとも思います。
ただ、その価値に気づけるようになれたらいいなと思っています。(山田潤史)