
年祭活動を勤めきる
教祖百四十年祭まで、いよいよ残り四か月となりました。
ここまで積み重ねてきた歩みを最後まで諦めることなく、たすけ一条の喜びを味わいながら勤めきりたいと思っています。
この三年千日は、ひながたを目標に教えを実践して、たすけ一条の歩みを活発に推し進めるときですから、何事も中途で投げ出すことなく、根気よく続けることが大切です。
「最後まで諦めない」という言葉で思い出すのが、桂米朝師匠の落語「始末の極意」です。
松の枝にぶら下がる男の滑稽な姿を描いた噺ですが、結局は「諦めたらしまい」ということを、笑いを通して教えてくれる一席でした。
信仰も同じで、地道に続けることが何より大切。
たとえゆっくりでも、歩みをやめないことに大きな意味があるのだと感じています。
にをいがけの楽しさ
さて、全教会布教推進月間も9月末で締めくくられます。
この記事が教区報に載る頃には、ちょうどその終盤。
教会をあげてにをいがけに勇み立ち、互いに励まし合える月となってほしいと願っています。
私自身も三年目に入った年祭活動の一環として、奈良駅前で路傍講演やチラシ配りを続けています。
数か月通っているうちに、いつしか子どもが「一緒に行きたい」と付いてきてくれるようになりました。
今では外国人の方を見つけては笑顔でチラシを手渡してくれるので、私にとっては心強い仲間です。
小さな背中に頼もしさを感じながら、「信仰はやはり日々の実践の中で伝わっていくのだな」と実感しています。
信仰実践は親から子、子から孫へ
子どもが一度きりではなく、定期的に付いてきてくれるようになったことを夫婦で喜び合い、両親にもその話を伝えました。
すると母が懐かしそうに語ってくれたのです。
「あなたも小さい頃、よく私にせがんでにをいがけに付いて来てたんだよ。親と二人きりで出かけられるのが嬉しかったんだろうね。途中で食べるおにぎりやお菓子も楽しみだったんじゃない?」
三十年以上前のことを聞かされ、驚きつつも妙に納得しました。
自分には記憶が残っていなくても、親が蒔いてくれた信仰の種が、今になって芽を出しているのだと気づかされたからです。
親が自分にしてくれたことを、自然と子どもにも受け渡していく。
その連なりの中に信仰の喜びが確かに息づいているのだと感じました。
この道は先長く楽しむ道
三十年後、今度は私や妻が大きくなった我が子に向かって、「あなたも小さい頃はね……」と笑いながら話す日が来るかもしれません。
そう思うと、「この道は先長く楽しんで通る道」という教えにいっそう深みを感じます。
信仰は特別な場でのみ輝くものではなく、日々の暮らしの中で、親から子へ、子から孫へと受け継がれていくものです。
今も昔も変わらず明るく楽しい道であり、未来に向けてもなお希望を抱かせてくれる教え。
そう思えば、どんな小さな一歩も尊く、結構な働きとなることを確信します。
年祭まで残りわずか。
最後まで諦めず、楽しみながら歩みを進めさせていただきたいと思います。