【信仰随想17】誠にすること難しかろ 教区主事 吉田孝敏

年祭活動の中で教祖伝を拝読して居られる方も多いと思います。

そして、読む度に新しい気付きに出会います。

元治元年五月に飯降伊蔵先生が奥さんのおたすけを願って、初めておやしきを訪ねられた時、教祖は「さあ/\、待って居た、待って居た」と喜ばれたと言います。

そして、教祖が「救けてやろ。救けてやるけれども、天理王命と言う神は、初めての事なれば、誠にする事むつかしかろ。」と仰ったので、こかん様が三日の願をかけ、散薬を与えられました。

この導きによって飯降先生の奥さんの身上はご守護頂き、夫婦で熱心に信仰される事と成り、これがつとめ場所の普請につながる教史の大きな転換点ともなりました。

この時、こかん様が願って下さったことに加えて散薬(はったい粉と思われる)を渡された事はとても大切だと思います。

帰ってきた夫から話を聞いたおさとさんも、何か実感を持って神様を感じる事が出来たのではないでしょうか。

教えられたとおり腹帯を取り除き、散薬を頂いて少しずつ気分が良くなる毎に、神様のお働きを身に感じて納得を深めて行かれたのです。

教祖は、私達が初めて聞く神様の事を直ぐには信じ切れない事をよく分かって居られて、神様に近づく手立てをいろいろと講じて下さっているのだと思います。

それが、ここで言われる散薬、現在のお御供さんであり、赤衣のお召し下ろしのお守りであり、(今はありませんが扇の伺いであり、)何時でもお詣りさせて頂けるおぢばであります。

おさづけ、おつとめは勿論その中核ですが、それらを、一つひとつ丁寧に使わせてもらう事で、教祖の心に通じる道を慕って行くことになり、初めて触れる神様を誠に感じることに繋がって行きます。

また、教祖存命の理という事も、頭で理解しても心に深く感じる事ができないということも起こりがちですが、教祖から直々に授かったこれらのものを一つひとつ丹念に使わせて頂くことで少しずつ身に感じ、心に修まって行くように思います。

珍しいことでもありませんが、私どもの教会でも、朝づとめの後、お御供さんと教祖に供えたお水をみんなで頂きます。

そして、今日も一日元気に御用に励ませて頂けるようにお願いします。

二時にはミュージックサイレンで礼拝してお願いづとめ、夕づとめ後にはおさづけの取り次ぎをしたりしてもらったり。

事情をきっかけに始めた日参も今や帰るのが当たり前になって来ました。

今回の年祭活動は、初めて本部から大きな打ち出しが成されず、自主性自発性と多様性を重視した取り組みを促されました。

これは実に素晴らしい事であり、新しい時代への幕開けを感じさせます。

但し、それぞれの取り組み方次第となります。 

さあ、これからいよいよ後半戦です。

いろいろな手立てで誠にした親神様の存在とその勿体ない働きを一人でも多くの人に知ってもらい、陽気ぐらしへの心の切り替えをして頂けるよう、布教活動に励ませて頂きたいと思います。