
『綿圃要務』(めんぽようむ)という農書があります。
天保4年(1833)に刊行された綿栽培の手引き書です。
著者は豊後国(大分県)出身の大蔵永常。
天明の大飢饉に苦しむ農家を目の当たりにし、暮らしの安定には換金作物の普及が重要と感じて農学を志したそうです。
ワタは江戸時代の代表的な換金作物で、著者は「綿は加工の過程が多いことから仕事を生み出し国民をにぎわすと、綿栽培を推奨」(東京大学農学部図書館HP)します。
その内容はきわめて実践的で、綿栽培に取り組むにあたっての心得や、顕微鏡を用いたワタの解剖図、品種、良いタネの選び方、播種から収穫に至るまでの栽培技術、各産地別の情報まで、わかりやすく懇切丁寧に記されており、さながらワタの教科書、総合ガイドブックとなっています。
ちなみに、この『綿圃要務』は、天理大学附属天理図書館では特別な申請をしなくても原本の閲覧が可能です。
天保4年といえば、立教の5年前にあたります。
教祖が36歳の頃です。
ほぼ同時期の文政6年(1823)に記された農書に「山本家百姓一切有近道」があります。
著者は大和国山辺郡乙木村(現在の天理市乙木町)の山本喜三郎です。山本家は芝村藩の頭庄屋(大庄屋)を勤める家柄で、六町歩余もの田畑を有していました。
その農書には農事暦風に、日々の農作業の段取りや要領が品目毎に丁寧に記され、奉公人に対する心遣いや生活の心得等も教え諭すように記されています。
幕末の厳しい時代を大庄屋として生き残るための智恵を子孫に伝えるプライベートな覚え書きですが、そこにもワタの栽培に関わる記述が多く登場します。
当時、乙木村周辺でもワタがさかんに栽培されていたことがわかる資料です。
ちなみに、この「山本家百姓一切有近道」は、『日本農書全集』(農山漁村文化協会発行)の第28巻に収められており、一般の図書館にも架蔵されているはずです。
現代語訳もついており、当時の農家の暮らしを知る上でも大変興味深い一書です。
教祖がワタの収穫をされていた様子が、上村福太郎著『教祖の御姿を偲ぶ』(天理教道友社)に記されています。
そこには「綿摘み」と題して次の話が収められています。
「教祖のお神がかり以前のことを、私(編註・北田竹松氏)の祖母お信がよく言っておりました。昔、中山さんの綿畠が今の上之郷詰所のところあたりにあって、教祖は夕方まで綿摘みをしておいでになり、北田と畠が隣同志だもんでよく話をしたそうです。」(201頁)
「今の上之郷詰所」の「今」とは、昭和23年です。
5月3日に播いた綿のタネは、その後ふた月を経て、50㎝を超えるまでに成長し、摘心(成長点を摘み取る)をはじめました。
枝先にはすでに蕾が付きはじめています。
江戸時代はワタの蕾を「蝶」、実を「桃」とも呼んだそうです。
H.A.M.A. 木綿庵(ゆうあん) 梅田正之