
私どもの教会は、直属の分教会で、さらに単立といって御部内教会などもありません。
ですから、皆さんが自然と経験されるような直属教会を中心とした鼓笛隊やひのきしん隊、上級教会の当番や教養掛、また講行事などを経験したことがありません。
こう話すと、「楽でいいなぁ」と冗談を言われることもあります。
確かに、楽といえば楽かもしれませんが、寂しくないといえばウソになります。
例えば、御本部の青年会総会で、一人でパイプ椅子に座ることになったらどうでしょう?
同じ場にいながら、どことなく寂しくないでしょうか?
また、教内の方々とひのきしんをしたり、会議をしているときに、よくある会話の流れが「ウチの大教会はこうだから」というやつです。
「ウチはこうだ」とか「○○大教会っぽいなぁ」など、それぞれの大教会の雰囲気やならわしを台に、話が盛り上がっていくことはよくご存知のことでしょう。
それも、結構な頻度です。
これは皆さんの多くが、各大教会のつながりの中におられて、その中で御用に励まれている。
そして、そこで生まれる喜び、さらには苦労もある。
所属こそ違えど、そうした経験は自然と共通理解となるのでしょう。
そうした上で初めて成り立つ会話であって、私のような共通理解のない者からすると、話している内容は理解できるけれど、なぜそれでそんなに盛り上がれるのかよく分からないことが結構ありました。
ですから、お道の御用をするようになった当初は、同じ天理教でありながら、自分だけ浮いているような気になったものです。
子供の遊びのように、「い~れ~ てっ!」と言えば仲間に加われるようなものでもないようです。
同じ信仰をしながら、見えない壁のようなものが厳然としてあり、世界全体の救済という大目標からすれば、不合理のようにも思えたものです。
そうした消化不良もあってか、天理教の中心部を少し遠目から観察するような私の態度が養われたともいえます。
そんな私も組織人としてだんだんと順応し、おぉ、同じ天理教をやっているな!というつながりを感じることが出来たのが教区の活動といえます。
教区の青年会や災救隊に関わらせていただいて、みな、置かれた立場で一生懸命頑張っておられることを知りました。
中でも、教会長や教会長子弟という立場でありながら、個人の能力や特性、土地柄で自然と身についた技術など、それぞれの徳分を生かし、多方面で活躍されていること。
そうした人々とのかかわりが私の寂しさを埋めてくれたように思います。
と同時に、もっとフラットにつながれば、さらに輝きを増すのではないかとも感じています。
みなさんにとっては当たり前のように感じる直属教会のつながり、それは大きなうねりとなるとてつもない力を持っています。
しかし、次の時代に向けて、そのつながりを有機的な横のネットワークとしてつなげていくことが急務でしょう。
なにより、頑張っている人と一緒に何かできると嬉しいものです。
そうしたつながりがあること、これは私の人生にとって無上の喜びとも言えそうです。(山田潤史)