
「お父さん、誰も聞いてくれなかったね!笑」
年祭活動も3年目に入り、半年以上が経ちました。
中でも、私の子どもが奈良駅前の路傍講演に高頻度で、しかも自発的に一緒に行ってくれるようになったのは、最近の大きな喜びの一つです。
当初は「暇だから来ていた」のだと思うのですが、今の彼らの動機は明確で、「待っている間に、自販機の好きなジュースが飲めるから」です。
不純な動機かもしれませんが、私としては理由なんてどうでもよくて、ただ居てくれるだけで嬉しいものです。
たまに聴衆にもなってくれるので、小さな頼もしい存在でもあります。
「お父さん、誰も聞いてくれなかったね!」とか、「お父さん、一人だけ聞いてくれたね!」とよく言われるので、その尋ねてもいない感想を聞くたびに、可笑しくて笑いがこみ上げてきます。
子どもというのは、本当に癒しの存在ですね。
にをいがかからなくてもいいじゃないか
あるとき、一番上の子が「続けてて誰かそれで入った人いんの?」(原文ママ)と、にをいがけによって天理教に入信した人はいるのかと、子どもながらに単刀直入な言葉で尋ねてきました。
私は、「神様がちゃんと聞いてくださってるから、誰も聞いてくれなくても別にいいんだよ。こうやって“天の貯金”がどんどん貯まっていくねんで」などと答えると、「え!天に貯金貯まるん?むっちゃ良いやん。行ってらっしゃい!」と元気に送り出してくれます。
世間の営業マンからすれば、「誰も聞いてくれなくてもいい」という姿勢では失格でしょう。
でも私はそれでいいと思っています。
にをいがかかっているかどうかは分かりませんが、単純に喜べることがどんどん増えてきました。
大きなお慈悲、親心のおかげでしょうか、別のところで芽吹きの御守護を頂いているような気がしています。
とても語弊があるかもしれませんし、ここで書くべきことではないのかもしれませんが、こんなにコスパ、タイパの良いことって、なかなか無いかもしれない——そんなことを、私は至極個人的に感じているのです。
いま私たちに出来ること
天理大学ラグビー部員2名が大麻を所持して逮捕される事件がありました。
あえて誤解を恐れずに申し上げると、大学で起こった事件とはいえ、これを一つの「ふし」として、教祖年祭を目前にした今だからこそ、私たちようぼくは、より一層にをいがけを活発に展開していくべきだと思うのです。
明治15年の我孫子事件で警察沙汰となった際にお伺いされた時の、「さあ海越え山越え/\/\、あっちもこっちも天理王命、響き渡るで響き渡るで。」とのお言葉は、私の支えでもあります。
大したことは少しも出来ていませんが、日本全国あちこちで御教えが響き渡る——その一翼を少しでも担えるのであれば、これほど有難いことはありません。
そんなこんなで「よし、今日も頑張ろう」と意気込んだ帰り道。
今日もまた娘から「お父さん、今日も誰も聞いてくれなかったね!笑」と言われました。
けれどその言葉に、不思議と力が湧いてくるのです。
誰に届かなくても、きっとどこかに、そして天に届いている——そう信じながら、今日も私は家路に着きました。(矢追きくぞう)