時間にしてわずか10分。
コレクションのショーは大団円を迎えました。
こんな機会は滅多にないと、ショーの観覧を終えた私は厚かましくもほんの少し前まで美しいモデル達の歩いていたランウェイに踏み入れたのです。
怒られまいかとヒヤヒヤしましたが、みな撤収に忙しく、私になど気にかける様子はありません。
せっかくだから歩いてみようとモデルのまねごとをしてみたのですが、写真をご覧頂いて分かるように不格好を地でいく始末。
「歩くこと」も一朝一夕では成り立たないことを痛感し、会場をあとにしました。
昼下がりの公園を歩きながら余韻に浸りつつ、非常に高いレベルで自身のアイデンティティを築き上げていく人々の姿を思い返していると、なんだか自身の服装が馬子にも衣装のように思えてきました。
ショーの観覧で失礼があってはならないとジャケットにネクタイ、それだけでは味気ないので日本の秋を思わせるストールを巻き、意気揚々と会場入りしたのですが、終わってみれば自身の服装がいかに凡庸であるか、日本ではそこそこオシャレだと自認していたことを恥ずかしく思うようになっていたのです。
見渡せば、彫刻を思わせる造形美が闊歩しています。
そのなかを歩く私は、自分が洋装をもてはやす明治初期の日本人になったようで、自身のアイデンティティがいかに日本でしか通用しないものであり、かつ中途半端であるのかということに気づかされたのです。
そんななか、パリで行っておくといい場所として友人が教えてくれたのが、ケ・ブランリ美術館です。
「ケ・ブランリに作品のヒントが詰まっている」という友人の言葉と、アジア人として、日本人として世界に誇る美とはなんだろうかなどと考えながら足を運びました。
芸術の素養のある友人のすすめということで期待して入ったものの、私にとってはなにも目新しいものはありませんでした。
すすめてくれた友人も世界が選ぶ100人の女性に選ばれるほどのアーティストだったので、その目に間違いはありません。
では、私が見当違いなのか。そうではありません。
同じような展示空間に何度も足を運んだことがあるからです。
そう、天理参考館こそ、芸術家が求めてやむない美のヒントに溢れた施設と同等の価値を有しているのです。
色彩感覚や配色、線の使い方に至るまで、いうならばコスモロジーの宝石群が身近にあることを私達はもっと大切にしなければなりません。
たまたま企画展が実施されていました。
テーマは「東洋の美」。
これはと思い、入るやいなや一枚の写真に私は脳天を貫かれたような衝撃を受けました。
それは日本の仏像ではありませんか。
うつむき加減でわずかに微笑をたたえられたそのお姿がアジアを代表する美として、企画展の最初に展示されているということは、西洋が日本の美を高く評価しているあらわれでしょう。
私は迷路から抜け出たような気がしてホッとするとともに、入ったときよりも切れ長の瞳をさらに細くし、わずかな微笑をたたえながらケ・ブランリをあとにしたのでした。(山田潤史)