
もう今から10年以上も前のことになりますが、強烈に覚えている出来事があります。
ある夏の暑い日に、行列のできるラーメン屋さんに連れていってもらった時のことです。
人気メニューは、背脂豚骨ラーメン。
スープにお箸が立ちそうな、濃厚スープのラーメンです。
こってりラーメンが大好きな私は、ワクワクして並んでいました。
しかし真夏の日差しの中を並んでいると、まだ食べてもいないのに、胃もたれのような状態に。
やっとの思いでお店に入ることができ、メニューを見るも、私の胃は、こってりラーメンを受け付けてくれそうにありません。
満席のお客さん達が、みんな同じラーメンを頼む中、私は一番あっさりしているであろう、塩ラーメンを注文することに決めました。
「塩ラーメンをひとつ」と店員さんに告げると、一瞬で不満が伝わるトゲトゲとした表情と態度で「は? 塩ラーメン?」と返ってきました。
思わず「すみません。お願いします。」と口から出たのでした。
店員さんの一言は、場の雰囲気を壊すのに十分すぎる破壊力で、テーブルの雰囲気が悪くなり、私の心までトゲトゲとさせます。
「うわー最悪な店員さんにあたってしまったな。」と、心の中で私はぼやいていました。
結局、食べた塩ラーメンが美味しかったかどうかは、覚えていません。
すごく食べたかった豚骨ラーメンだったのに「次こそは!」とも思えませんでした。
帰宅後、「これだけ美味しいと評判なラーメンでも、提供する人の言葉と態度で、こんなにも味のしない物になるのか。」と考えていたときに、ハッとします。
「じゃあ私はどうだろう?」
私は、この教えを素晴らしいと感じてもらえるような、提供の仕方ができているのかという問いに変わりました。
どれだけ素晴らしい教えであっても、もしも提供する私がトゲトゲしていたら「信仰していても、こんなもんか」「もうこの教えは聞きたくないな」と、味のない物に変えてしまうのではないか、と気付かされたのでした。
生きていたら、穏やかな晴れのような心の日もあれば、荒れ狂う嵐のような心の日もあります。
そんな日があってこそ、人間なのだと思います。
ですが、嵐のような心の日に、人にどんな言葉をかけて、どんな態度で接していくかは、私次第、あなた次第だと思うのです。
「あの人の話なら、また聞いてみたい」「この信仰って優しいな、あたたかいな」
そんな提供の仕方を私はしたいな、とラーメン屋さんに大事なことを教えてもらったのでした。
あれから10年以上の月日が経ち、憧れの信仰者の真似事をしていく中で、改めてあの日を振り返ると、あの店員さんは、なにかしんどかったのかな?
「すみません」ではなくて、「すごく忙しそうですね、大丈夫ですか」と声をかけたら良かったなと、そう思えるのです。ありがたいです。
10年たって初めて、店員さんの言葉を受け取る、私の心や一言でも、味のある美味しいラーメンにできたのだと、そう思えます。
この夏、あのラーメン屋さんに久しぶりに並んでみようか、と考える今日この頃です。(さみっちゃん)