名器への幻想⑧【其の五十一】

こうして書いてきたが、「名器」とはどんな楽器を指すのか結局判らない。

まず「何々天皇が某神社に祈願のため奉納した楽器」とか「何々天皇の御物」。

または「左大臣某の所持していた楽器」といったいわくのついたグループ。

つぎに「誰々が吹いていた( 弾いていた)楽器」。

このグループには、和邇部用光の吹いていた篳篥とか、博雅三位が愛用した笛などがあるが、この類の伝説は非常に怪しいのが多く、あまり信用できない。

けっきょく、正倉院に残る五絃の琵琶に代表される歴史的に価値のあるものとか、美術品として優れている物を「名器」という名前で呼んでいるのだろうか。

演奏家は皆夫々何年、何十年と使っている愛用の楽器を持っている。

楽器と言うのは人間と同じで種々な癖を持っていて、持ち主以外の人には中々使いこなせない。

その癖を克服して自由に使いこなしている持ち主にとって、その楽器は銘はなくても名器と言えるだろう。

自分の楽器を「悪い楽器だ」と思っていたら決して良い音では鳴ってくれないだろう。

勿論、より良い楽器を欲しいとは思っても取りあえず殆どの楽人は現在付き合っている楽器を悪くは思っていないのである。

私も父の使っていた篳篥を自分の楽器にしてから五十年以上になるが、持ったとき感じる私の癖によって出来た指穴の微妙な擦り切れ方とか、それによって生じた楽器の歪みなど、他の楽器には無い安定感がある。

私にとってこの篳篥は「名器」なのである。

「名器」とは誰もが認める、歴史的・美術的に優れた名器もあれば、誰も知らなくても持ち主一人だけの名器もあるのである。