ここで、日本での雅楽の歴史について触れてみます。
楽舞に関する最古の記録は、五世紀中頃の允恭天皇の崩御に際して、新羅(朝鮮半島)から楽人が来た。
という日本書記の記事です。
次に、欽明天皇十五年(554)に朝鮮半島の百済から施徳三斤、季徳己麻次、季徳進奴、対徳進陀の四人が五経博士、僧、易博士たちと共に渡来した記事が見える。
そして、天武十二年(683)に飛鳥の宮廷で、古来からの小墾田舞と高麗( 高句麗)百済、新羅の朝鮮半島の三国楽が奏された。
その少し前、推古二十年(612)に百済の味摩子によって伎(妓)楽が伝えられた。
また、大宝元年(701)には治部省雅楽寮が設置され、国を挙げての音楽が確立されていく。
なお、雅楽寮の古訓は『和名類聚鈔』によると「宇多末比乃豆加佐」で、当初は四百人の人数であったという。
さらに、天平八年(735)には林邑( ベトナム)僧の仏哲 が林邑楽を伝え、その他度と羅楽、渤海楽などが伝わり、奈良の都はこうした国際色に富む楽舞が華やかに花開き展開したのである。
「なすところの奇偉、あげて記すべからず。仏法の東帰より斎会の儀、未だかつてかくのごとくの盛あらざるなり」(続日本書紀)と記された天平勝宝四年(752)の東大寺大仏開眼供養会の楽舞の盛大な奉奏となって大成されることになるのである。
唐楽の伝来の年は、定かではないが、天平六年に入唐留学生・吉備真備が「楽書要録」及び楽器を献上したとされる。
この前後に唐楽も伝わったものと推定される。
平安時代になると、前代の唐楽の輸入がしばらくは続くが、やがて日本人による改作や新作が行われるようになる。
仁明天皇の承和時代に活躍した人物には、大戸清上、和迩部大田麿、大戸真縄、犬上是成、尾張浜主たちが知られている。