年が改まる。それは地球が太陽の周りを一周したということである。
これを地球の公転運動というが、恥ずかしながら私は、つい最近まで、教科書に書かれていた太陽系の図のように(図参照)、太陽の周りをぐるっと一周すると「元の位置に戻ってくる」ものと思い込んでいた。
そりゃあそうだ。
私の目の前で繰り広げられる世界に特段変わりはなく、ゆっくりと葉を枯らし、そのうちに春が訪れる。
毎朝目を覚まし、神苑を掃いては拍子木を叩くを繰り返す。
「繰り返される世界」が暮らしを通して私の精神に染み込んでいる。
そして、それはある種のあきらめと安心感も含んでいそうだ。
しかし宇宙的視野でみると、どうもそうではないらしい。
太陽自身もものすごいスピードで宇宙の果てへ進んでいて、地球も他の太陽系の惑星も太陽を追いかけるように進みながら回っているという。
まるでらせん階段を上るように。
私はこれを聞いたとき、頭を殴られたような衝撃を受けたが、つまり私たちは常に新しい状況に直面しているということなのだ。
四季はめぐり、また同じ季節・同じ気候に浴せると思っているがそうではない。
去年の春と今年の春はまったくの別物であること。
だって、らせん階段を一周したら、同じ位置でも高さが違うんだから。
異常気象だなんだというが、それは元の位置に戻ってくるという「繰り返される世界」の発想だ。
過去のデータと照らし合わせた結果、異常と判断される。
けれど実際は、常にまだ見ぬ新しい世界に進んでいるのだから、その視点からみれば異常でもなんでもなく、常に「異常」のただなかに私たちはいる、ということになる。
「一日生涯」という教語の真意を私はよく分かっていないが、この宇宙的事実と照らし合わせて妙に納得している。
地球は進むたびにまだ見ぬ宇宙を常に体験しており、そこに住まう私たちも今まで経験していない宇宙の状態をその身で体験しているのだ。
そう、今、これを読んでいる瞬間も、まったくあたらしい。
そう思うと、時々刻々と新化しているわりに、えらくたくさんの妄念や執着をその身に携えながら進もうとしているなと自分自身を見る。
常に新しい世界に進んでいるのだから、余計な感情やしこりを置いてくればいいものを、また繰り返すと思っているから引っ提げている。
そうした重荷がまったくあたらしい状態を感じ取るための感度を鈍らせているなと思う。
そんなものすべてほっぽり出せたなら、そうして、まっさらな気持ちで「やってくる世界」を、まったくあたらしい宇宙の状態を感じられたらどれだけ楽しいだろう。
私の持てるあらゆる感覚器官を開いて、降り注いでくる未来を存分に味わうことができたら…とこうした年の改まる時期に考えちゃったりして。(山田潤史)