すがマロRADIOというネットラジオ番組をやりだして6年が経つ。
現在はSpotifyというデジタル配信サービスで、毎週2回、火・金曜日に配信。
おかげさまで、600回を超えた今も配信を続けられている。
生まれた土地でそのまま生涯を終える人の方が少ない現代。
転居が理由で、所属する教会から遠くなるケースは少なくない。
結果、お道の雰囲気に触れる機会が減り、信仰の世界からも距離ができてしまう人が少なからずおられる。という肌感覚があったので、教えに触れる機会を増やそう、と考えた。
「これからは音声配信がくる!」という情報を素直に信じて、おみちの教えをいつでも聴けるものを作ろうと決めた。
とはいえ、一人で語るにはすぐにネタ切れしそうなので、相方を探して、会話形式で楽しく語るスタイルにしようと思っていた。
ひょんなことから相方と出会い、その場で口説き落として巻き込むことに成功。
決め手は、おみちへの向き合い方が全然違うかったから。
似た者同士なら、新しい世界観は生み出しにくい。
本科研究課程を出ている相方は、うってつけの相手だった。
やり出してよくよく分かったことは、自分がいかにおみちの教えを知らないか、ということ。
本科仕込みの相方のおかげで、偏った信仰観を随分と矯正され、教えの全体観をようやく掴みつつある。
そして、おみちの教えの面白さを深く知った。
それまでは、行動して結果が出ることで喜ぶことが信仰の喜びと考えていた。
これでは、自分にとっての都合の良し悪しに随分と左右されかねない。
教えの輪郭を掴めるようになると、ごく普通の日常生活で、なんとも言えない喜びや楽しみを味わえるようになったのである。
お道の人と談じ合う内容も、それまでは「何をやっているか」が中心だったのが、「神様の思し召は那辺にあるのか」「このお言葉に込められた神意はなんなのか」と変わってきた。
変化の波は考え方にも波及し「感謝しよう」「喜びを探そう」という感覚から、「自然と感謝の念が湧いてくる」「なにもなくてもなんだか楽しい」に変わった。
楽しみ方のベースが何気ない日常になったのである。
教えを知ることの面白さを体感した私は、機会があるごとに談じ合いをするようになる。
8月は教養掛の御用をつとめさせていただいたが、朝からコッテリした談じ合いが行われるのが教養掛室の日常となった。
男性2名、女性1名の3人で、毎日毎日飽きもせず、教えについて語り合う。
最初は戸惑いを隠せなかった他の2人も、談じ合いによってだんだんと覚醒。
気づきの連鎖が繰り広げられる教養掛室は、外から見ても随分と楽しそうに映るようである。
朝席夕席をテーマとした談じ合いは、神殿講話の添削へと発展。
教理勉強会まで開かれる始末となり、誠に賑やかである。
教養掛室だからできた、ではもったいない信仰の雰囲気。
神様を中心とした諭し悟りの面白さは、教会でこそやっていきたいと感じた、おぢばでの1ヶ月だった。(西岡寛麿)