【信仰随想10】成ってくる理を喜ぶ 西吉野支部長 島広海

諭達に「教祖は…どのような困難な道中も親神様のお心のままに、心明るくお通り下された。」とあります。

私達信仰をしている者は、「成ってくる理を喜ぶ」という話を聞かせて頂きます。

その意味は読んで字のごとくであり、成って来たことを喜ぶということで、口で言えば簡単な事でありますが、実際は大変難しい事であると思います。

信仰している者の立場からすれば、成って来た事柄は親神様の思し召し、思惑から自分に、又その人に一番いいように神様が与えて下さっている事柄と思案してその中から中々喜べない事でも、喜びを見つけ出そうと努力し、そして心の切り替えをさせて頂く事が出来ますが、親神様の思惑から成ってきた事柄だと分からなかったら、思わなかったら、考えることが出来なかったら、成ってきた全ての事柄を喜ぶことが出来ないのであります。

そこにお道を信仰している者と、していない者との物の見方考え方の違いがあると思います。

私は親神様の教えを信仰していますから、日々の生活の中でどの様にして喜びを見つけようか、どの様にして喜びを積み重ねようかという事を真剣に考え、それを実行する事で教祖のひながたを辿らせて頂く事が出来ます。

私達の何気ない日々の生活の中で、色々と喜べない事柄があってもどこに喜びがあるのか、周りの人々にとって喜べないことでも、自身で喜べるように努力することが信仰者の真髄(精神というべき大切なところ。 その道の奥義)であると、昨年の3月の月次祭の後にお話させて頂きました。

ところが5月のある日、車で走っていると何かピシッという音が聞こえてきました。

フロントガラスに小さい石が当たって小さいヒビが出来ました。

ヒビはだんだんと広がり修理が必要になり、車屋さんに相談すると15 万はする。との返事がありました。

2、3日なんでこうなったのかな、お金がいるなっと中々喜ぶことが出来ませんでしたが、月次祭の後に「成ってきた事柄を喜ぶ、これが教祖のひながたの道である」と、お話させて頂いたからには喜びを見つける努力をしなければと思い、自分が事故をして相手にケガをさせるとか、子供が事故をする処を小難にして下さったのだと思えば有り難い事やと喜ぶ事が出来ると思わせて頂きました。

しかし、修理まで日数が要する事も重なり、フロントガラスのヒビを眺める度になんでこうなるのかと思い、いやいや喜こばんなあかんの繰り返しの日々を送っていましたが、そのお陰で、これが私の今の心の成人の段階であることに気が付かせてもらいました。

教祖なら、フロントガラスにヒビが入った瞬間に大難を小難にして下さり有難いと喜ばれたと思います。もっと深い思案をされたかもしれません。

◎けっこう源さんは、柱の角に足をぶつけ、悶え苦しみながら「けっこう、けっこう」と仰しゃたともお聞きします。「痛みを感じる、この身体が有難い」と答えられたそうです。『難があって有難いのです。』 

年祭活動2年目、私自身が、物事に執着する心を取り去る事柄にこだわって「成ってくる理を喜ぶ」その心で通らせて頂きます。