【信仰随想5】心澄み切る教えに学ぶ 山辺支部長 北谷清

この道は、「腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教えやで。」(明20・3・22)とお教えいただく。

腹を立てると【内臓の働きが悪くなり、体内に毒素が発生する、又、交感神経と副交感神経の調和が崩れ、様々な症状が現れる】という話をどこかで聞いた。

【短気は損気】とはよく言ったもので、私は腹を立てる度、反省をしながら、沢山の気付きと成人の機会をいただく。

ある日のひのきしんでの出来事、休憩中に聞いた話を、帰りの車中でふと思い出し、急に腹が立ってきた。

腹立ちと急な眠気で、一瞬、目を閉じてしまった。

次の瞬間、「ガガガッ」という音で目が覚めた。

車はバンパーが外れる程の状態で、即修理へ出した。

車両保険の補償限度額ギリギリで修理ができ、綺麗になって戻ってきたので、結果的に良かったと思った。

が、同時に『ひのきしん帰りなのになぜ?』という気持ちも強く残った。

今になって思うと、そんなことで腹を立ててはいけない、目を覚ませ! と親神様に言われたように思う。

二年後、今度は車を買い替えなければならなくなった。

あの事故で、修理できたと思っていたが、それは見た目だけで、車の内部が時間とともにダメージを受けていたのだ。

結果修理にかかった費用以上の出費をする羽目になった。

事故で命を落としていたかもしれない所、大難を小難にしてくださったことに感謝して運んでいたつもりでいた。

しかし、神様の目から見れば、「つくし・はこび」が足りなかったのだと、反省させられた。

事情が起こる度、自分の通り方を振り返り、親の真意に思いを巡らせ、反省やさんげを繰り返す日々。

けれど、また御用の中で腹を立ててしまい、今度は身上にお手入れをいただいた。

コロナウイルスに感染したのだ。免疫が下がったせいで、持病も悪化し、結果、一日だけだったが入院する事となった。

自分だけは大丈夫、神様に守っていただいているから、という気持ちがあった分、正直ショックだった。

幸い、順調に回復し、日の光を浴びて、元気に体を動かせることに感謝した。

この体は、親神様からのかりもので、心の自由をお与えいただいている。腹を立てる癖・性分と向き合う中で、いかにその心遣いが重要であるのかを、身上・事情を通してお教えいただいている。

行ったり来たりしながらも、一歩ずつ成人する機会をいただけることは、本当に有難いことだ。

用木として、人様をお助けさせていただくにも、路銀となる土台が必要となってくる。

そして、それは用木一人一人に必要な時に必要な分だけ、神様がお与えくださるものだと思う。

今、見せられる身上・事情という親神様からのお試しは、その物事を受け止められる時だから見せられるのだと思う。

そしてそれは、全員がいつでも必ずいただけるものではなく、その人に必要なタイミングでご用意くださるのだと思う。

教祖百四十年祭に向かう三年千日、神名流しやおたすけ、おさづけのお取次ぎはもちろん、コロナ禍で止まっていた活動の再開、そして、新たな一歩を心に定め、腹の立たぬよう、心に掛けぬよう、癖・性分と付き合いながら、心澄み切る教えを、自分らしく自然体で実行したい。