名器への幻想③【其の四十六】

では、飛鳥の場合はどうだったのだろうか。

始めての雅楽が日本で奏されてから200年以上過ぎた奈良時代になって、聖武天皇の天平年間(729〜749)になると「遣隋使」「遣唐使」などによって、異国文化への知識が養われてくると共に、「習ってみよう」「聞いてみよう」という人たちが増えていったと考えられる。

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始めは異国の人たちによって日本には無かった楽器ばかりで演奏されていた現在の雅楽の原形とも言える音楽は、次第に日本人の演奏家が増えるにつれて、遂に九世紀半ばから約100年の歳月をかけて行なわれた。

後年「楽制改革」と呼ばれる「雅楽の日本化」という出来事によって、もとの音楽とは全く違う日本の雅楽として誕生する。

使う楽器を、三管(笙・篳篥・笛)二絃(琵琶・筝)三鼓(羯鼓・太鼓・鉦鼓)の八種類とし、総ての音楽を唐楽と高麗楽、二種類のどちらかに入れて統一し、六十種類もあった音階は六種類(壱越調・平調・双調・黄鐘調・盤渉調・太食調)にまとめた。

こうして日本的に変貌した雅楽は、やがて貴族達の趣味と教養のブームにのつて平安時代、雅楽の爛熟期を迎える。

(2)大宝元年(701)「雅楽寮」が設置され、それが発展して「楽所」「大歌所」などとなり専業楽人はいたのだが、平安時代、雅楽が貴族階級の趣味と教養の一種として繁栄した時代には、雅楽の演奏者も聴衆もほとんど彼ら貴族階級の人々だった。

歴代天皇も何かの楽器を演奏された。

なかには堀川天皇のように神楽の秘説を相伝されていた天皇までおいでになった程である。

平安の貴族達はどんな楽器を持っていたのだろうか。

また、楽器作りの名人がいたのだろうか。

これの答えは難しい。

絵画・彫刻と違い、現物が残っていないし文献もほとんどないからである。

元禄三年(1690)に書かれた楽書「楽家録」の「巻四十一、音楽珍器」に昔の名器といわれる楽器が書いてあるのでその幾つかをのぞいてみよう。(現代訳筆者)