私達は「おやさま」から初めて親神の思いと運命を切り替えて幸せになる道として、心の遣い方の筋道を教えて頂きました。
しかも、それだけでなく、親神様の思いのままに通る事が、幸せにつながって行くことを、自らの行いを持って具体的に示して下さいました。
「おやさまのひながた」と呼ばれている御時歴がそれであります。
「おやさま」はいつも貧のどん底の暮らしや、反対攻撃の中を勇んで通られたのですが、これを、現代の私達の生活の場面に置き換えてみると、例えば、身におぼえのない事や、理屈に合わない事を言われたら、そんな時一切言い訳や、相手を責める様な事を言わない、まず相手の身になって考える、この様な通り方になると思います。
ではなぜ、丸々損をしている様に思える通り方が、たすかって行く道なのか、運命切り替えの道なのか。
「おやさまのひながた」の五十年史実の中には、私達の「情」に訴える様な、言い訳のカケラさえ見る事が出来ないのです。
こうした、ただの一度さえも、自己主張の影すら、伺えないという事実には、何か深い意味が込められている様に思えてなりません。
こんな話を聞いたことがあります。ある家具作りの名人と言われた老人が語った言葉に、
「木には命がある、木の言うとおり切って、使ってやらにゃ、本物は出来ないよ。この命の、解らんうちは、いいものは作れんなあ」
この言葉からうかがえる「命」とは素材に使う木材の硬さや、癖をよく呑み込んで、その性質に合った使い方をすること、また仕事に命があると、言うのではないかと思います。
「もののいのち」この言葉は、使い捨ての時代から、近頃では少し変わって来た様に感じますが、この老人の言葉には、捨てがたい味わいがあります。
本物と偽物を厳しく見分けてゆく「こつ」のようなものを感じます。
そこで、信心という人間の行いを考えたらどうなるか。
つまり信心の「いのち」というように考えたら、その中味は一体、なにを指すのだろうと考えてみると、家具職人が「木の命がわからんうちは、いいものは作れない」と言った言葉には、少しのハッタリやごまかしも感じられない。
自分が、木の中にすっかり入りこんで、木の言うとおりに、「技」をふるっている。
こう考えた時、やはり信心というものは、心の遣い方だと思います。
木の命ずるままに「技」を使う。木の声・性質を感じ、素直についてゆく。
そこに自分というものが消えている。
まさに、信心する心も、素直な事が本筋ではないだろうか、と思います。
昨年の夏、庭先の片隅に真白い朝顔の大輪が姿を見せてくれました。朝つゆに輝く花びら。
でも、この花を産んだ、あの小さな黒い「種」はいつしか土に消えて、なくなっているという事を、決して忘れてはならないと思うのです。
「種」が消えてなくなってゆく所に花の「命」がある様に、自分が消えて、なくなってゆく様な通り方の中にこそ「あらゆるものごとが、成り立ってゆく土台がある」という真理を、教祖は「ひながた」を通して教えて下さった様に思うのです。すなわち「たすける理でたすかる」とは、この意味なのではないでしょうか。
わかるようむねのうちよりしあんせよ人たすけたらわがみたすかる 3号47