知ること、そしてやさしい心【永尾和繁①】

「言葉は文化である」

私は、日本の大学を卒業後、韓国の大学院で韓国学という学科にある韓国語教育専攻に進学させて頂いた。

そこでは、歴史・文化・言語などの多角的な視点から韓国という国について勉強させて頂いた。

冒頭は、その大学院のある講義で耳にした言葉である。

この言葉を聞いた時「いや、ほんまそれな」と、私は教授を見ながら肯いていた。

なぜなら、韓国語が日本語とほぼ同じの語順で、単語も似ていて学びやすかったが、勉強していると文化の違いという壁にぶち当たっていたからである。

例えば、韓国語の挨拶である「アンニョンハセヨ」。

日本語では「こんにちは」と翻訳されることが多いが、実は「안녕 ( アンニョン、安寧)」という言葉の尊敬語で、平穏無事に過ごしているかと尋ねる意味である。

私もはじめ、「こんにちは」という意味で解釈していたが、どちらかというと「お元気ですか?」という相手の近況を聞く言葉に近い意味だったのである。

この意味をもし留学当初に知っていれば、下宿先のお爺さんの挨拶の返答がずっと「はい」であっても、愛想のないお爺さんやなあ、という勘違いはしなかっただろう。

また他にも、韓国人は「우리(ウリ、私達)」という言葉をよく使う。

「私達の国」「私達の家族」等々。

日本語の「私達」の使用頻度とは比較にならないほど、本当に頻繁に、だ。

この言葉の背景には、韓国が過去に周辺諸国から侵略を受けてきたという歴史認識がある。

このような経験から韓国人は、自国と他国、味方と敵、私達と他人の境界線をはっきり引かざるを得なかった。

つまり「私達」という言葉には、韓国は単一民族国家で、民族主義的な意識が込められているのである。

大学院の卒業式、大学院の友人と

私は留学を通して、言葉にはその国の歴史・文化が内在していることを学んだ。

そして、世界たすけを志す者として、言語を学ぶことは勿論、文化的な違いを知ることも大事だと思わせて頂いた。

それは「知る」ことが、相手を「理解」することに直結するからである。

私自身、大学院の卒業式、大学院の友人とれからも韓国人の方に対して教えをお伝えする時、言葉と文化の違いを意識していきたい。

留学中、私はある一つの疑問を抱いていた。

それは「親神様は、なぜ言語や文化の違いを創造なされたのであろう」ということだ。

もしその違いがなければ、意思疎通がしやすくなり、国家間での争いが少しは減って、教祖の教えも伝えやすくなるのではないだろうか。

だが、親神様は泥海という混沌とした世界で、姿かたちが全く違う生き物を引き寄せられ、陽気ぐらし世界を望み、人間を創造下された。

その過程においても、六千年の知恵と、三千九百九十九年の文字のお仕込みをされたのである。

肌の色、言語、文化などは違っても、私達は皆、陽気ぐらし世界建設に必要な同じ人間である。

親神様・教祖は、言語や文化の違いを通して、私達に他人を理解する努力をし、やさしい心になることを望まれているのだと思う。(永尾和繁)