
おたすけの現場で、こちらの言動がきっかけで相手が腹を立てた場合、どのように対応すればいいのか。
考えていくためのたたき台を記しておきたい。
(0)前提として、相手の怒りを自分への攻撃だと決めつけない:自分が怒りのきっかけを与えたとしても、怒りの原因や矛先が自分とは限らない。
(1)その上で、まず相手の状態を見る:私とは関係なく、単純にお腹が痛いのかもしれないし、何らかのストレス状況に追い込まれているのかもしれない。
(2)その場に合わせて対応を変える:声をかけるのか、少し距離を置くのか、別の人に任せるのか。いったん「正しい対応」をあきらめて、その場を安定化させる。
(3)状況が落ち着いてから、周りに相談しながら、自分の対応をふりかえる:あの場面で、自分の言動はどう作用したのか。ただし、自分の人格ではなく、行動レベルの反省。「相手を怒らせた=おたすけ人失格」ではない。
嵐に巻き込まれてこちらも動揺すると、相手に言い返したくなったり、逆に、自分の言動を過度に悔んだりしてしまう。
自他共に事態をさらに悪化させないためにも、まずは「相手の状態」と「自分の状態」をいったん切り分けることが大切だろう。
では、このような場面で、教祖ならどのように対応されるのだろうか。
たとえば、慶応2年に小泉村不動院の山伏が、お屋敷に来て乱暴をはたらくという事があった。
『稿本天理教教祖伝』では、次々と難問を放つ者に対して、教祖は「一々鮮やかに教え諭された」とある。
『正文遺韻』にはもう少し詳しく、
悪口雑言を述べ、刀をぬいて畳に突き刺す相手に対して、「御教祖様は、一歩もおしりぞきにもならず、びくともせず、口をむすび、まなこをとぢて、ゑみをふくんで、泰然と遊ばしてござる」(40頁)
とある。
落ち着いて逆らわず、逃げも隠れもせずというご態度が印象的である。
では、教祖はそのお姿を通して、私たちに何を教えて下さっているのだろうか。
教祖はこの出来事の後で
「ほこりはよけて通れよ、ほこりにさからうたら、自分も又ほこりをかぶらにやならん程に、けしてほこりにさからうやないで」又「しんじつもつてこの道つとめるなら、いかな処も、こはきあぶなきはない。神がつれて通るほどに、決しておめも、おそれもするやないで」(41頁)
とお聞かせて下さったようである。
「ほこり」は、自分の胸の内にあるものとして「払う」というイメージがあるが、それは根本的な生き方の話であり、場面によっては「ほこり」は「避けるもの」として捉えることも必要なのだと拝察する。
おたすけの道中において、相手が攻撃的になることはおそらく避けられないだろう。
慣れない信仰生活の中、ときに相手は多大なストレスを感じて、そのはけ口をこちらに向けることがある。
そんなときは「相手のほこりは避けることはできる」という教えをもとに周りの人と談じ合い、内心ビビりながらもできるだけ落ち着いた対応を心掛けたい。
その積み重ねによって、嵐の中で「神がつれて通る」に近づいていければと願っている。
(nibuno)