
「綿柎開」と書いて「わたのはなしべひらく」読みます。
二十四節気・七十二候の第四十候で、8月23日から同27日頃をさします。
綿の実を包む「柎(はなしべ=萼がくのこと)」が開き、中からふわふわとした白い繊維が顔を出し始める頃を意味しています。
戦国時代以降に日本ではじまった綿の栽培は、次第に東北の最北部を除く全国に広がっていきました。
栽培発祥の地について『綿めんぽようむ圃要務』(前号参照)には「此綿を作る事ハ大和国に始て作り」とありますが、諸説あって定まっていません。
ただ、大和国が栽培先進地域であったことは事実のようです。
江戸時代前期に刊行された井原西鶴の浮世草子『日本永代蔵』には、綿の重要な加工道具である唐弓(とうゆみ)を考案して大儲けした男の話が出てきます(巻五の第三)。
その男とは朝日の里(現在の天理市佐保庄町)に住む川端の九介です。
すでにその当時から大和国が綿作の盛んな地として知られていたことを示す資料の一つと言えます。
また、江戸時代前期には郡山、丹波市、田原本、今井、高田等の商人によって大和の綿が関東はじめ諸国へ販売されていた記録も残っています。
綿作が全国各地に広がるにつれて、大和産の綿の価値は相対的に下がりはじめます。
大和における綿作のピークは江戸時代中期です。
そこで、収穫した綿を糸に紡ぎ、織物に仕立て付加価値を高めて販売することが行われるようになり、在郷商人が各村を巡り、農家から買い集めるようになります。
需要はいくらでもありましたので、糸紡ぎ、機織りは農家の貴重な副業となっていきました。
江戸時代の後期、すなわち教祖が糸紡ぎや機織りをされていた時代は、大和絣に代表される大和国の木綿織物業が隆盛に向かう時代と重なっています。
ところが、幕末の開港とともに状況が一変します。
外国から安価で良質な綿花、綿糸布が大量に流入するようになり、危機感を募らせた明治政府は日本の綿作農家を守るためにも国産綿花の栽培を奨励し、国産綿花を主原料とする紡績工場の建設を民間に促します。
全国で十箇所が選ばれたことから十基紡績所と呼ばれる工場の一つが、大和国山辺郡豊井村(現在の天理市豊井町)に建設されました。
豊井紡績所です。
明治15年から建設工事が始まり、同16年に操業を開始しています。
その跡地が現在の天理市豊井浄水場です。
かんろだいの石出し(明治14年教祖伝152頁)が行われた滝本山のすぐそばです。
おやしきのすぐ近く(現在の本通商店街から天理ダムに向かう道)を車が走り、紡績職工を専門の相手とする料理屋兼旅館も布留川沿いに出来ていたそうです。
五月三日に種を播いた綿は、梅雨が明け、小暑、大暑を迎える頃から次々と花を咲かせはじめています。
ワタはお日様が大好きです。松葉牡丹とともに日和草とも呼ばれる所以です。
H.A.M.A. 木綿庵(ゆうあん) 梅田正之