
二代真柱様の「綿屋文庫」(道友社刊『陽気ぐらし』所収)には、中山家が「綿屋」という屋号を有し、秀司先生が綿を商っておられたことが記されています。
―実は、綿屋と申すのは、私の家、中山家が幕末に使っていた屋号なのであります。『わたや善右衛門』と申すのが私の祖父に当る人なので、後年中山秀司の名の下に教会史に現われてくる、秀司祖父のことなのであります。(中略)庄屋や戸長を勤めるかたわら近郷から綿を集めて、商っていたらしいのです。(323~324頁)
このように、秀司先生が「近郷から綿を集めて、商っていたらしい」と記されています。
中山家がいつ頃から「綿屋」という屋号を有していたのかについてははっきりしませんが、文久年間に記された秀司先生ご自身の筆による『万覚日記』には、綿に関する商いの記録が残っています。
また『稿本天理教教祖伝』の五四頁には「米倉と綿倉を取りのけて」とあることから、それ以前より綿倉を必要としていた様子がうかがえます。
ただその商いはそれほど大規模なものではなく、同村や近村の個人がおもな取引先であったと考えられています。
木綿の紋付を着て「青物や柴を商うて近村を歩」(教祖伝三九頁)かれたように、容易ならぬ道中を戸主として家計を支えるための商いであったのかもしれません。
月の光を頼りに教祖が糸を紡がれた様子が教祖伝に記されています。
―六十の坂を越えられた教祖は、更に酷しさを加える難儀不自由の中を、おたすけの暇々には、仕立物や糸紡ぎをして、徹夜なさる事も度々あった。月の明るい夜は、「お月様が、こんなに明るくお照らし下されてい居る。」と、月の光を頼りに、親子三人で糸を紡がれた。秀司もこかんも手伝うて、一日に五百匁も紡がれ、「このように沢山出来ましたかや。」と仰せられる日もあった。普通、一人一日で四十匁、夜業かけて百匁と言われて居たのに比べると、凡そ倍にも近いお働き振りであった。(39―40頁)
初代真柱様の「稿本教祖様御伝」(教義及史料集成部編『復元』第三三号所収)には「文久三亥年、教祖六十六才ノ御時、亦一家ノ経済即チ世帯ヲ遊サル、尓来昼夜ノ別ナク仕立物紡糸等遊サレ、漸クニシテ一家ノ糊口ヲ御凌ギ遊サレタリ。」(三九頁)と記されています。
教祖伝や逸話篇にたびたび登場する教祖と綿(綿摘み、糸紡ぎ、綿木引き、機織り)に関する記述や「綿屋」という屋号に対する理解は、当時の大和における綿作と木綿織物業の隆盛の歴史(前号参照)を知ることによってより具体的になるような気がします。
五月三日に種を播いたワタは、処暑を迎える頃より次々と実が弾けはじめました。
まさに「綿柎開」(前号)です。
江戸時代は、綿の実が弾けてて白い繊維があふれだすことを綿が「吹く」と表現しました。
H.A.M.A. 木綿庵(ゆうあん) 梅田正之