
7月24日に公開された「映画ちいかわ 人魚の島のひみつ」の躍進がすさまじい。
3年以上ちいかわを見てきた私として は、映画化されると聞いた時から現在の 姿は容易に想像できたので、それほど驚 きではないのだが。
とにかくSNS上では深く考察する人 たちが溢れかえり、ちいかわを知らなか った多くの“大人”たちが熱狂する姿が 散見される。
推してきた私も早速映画を見てきた。
原作ストーリーを知っている勢でも映画でしか見れない映像に満足したし、人の考察を見て後から味わう贅沢な楽しみ方を満喫している。
さて。ちいかわを知らない人はなんの ことかサッパリ分からないとは思うが、 なぜちいかわはここまで多くの人の心を 掴むのだろうか。
大の大人が考察せざるを得ない気持ちになるのだろうか。
それは、答えを提示するのではなく、問いを残すからだと私は考える。
1+1=2という、誰が見ても同じ答えに行き着くような問題では、当然人は熱狂などしない。
白とも言えるが、でも見る角度を変えると黒も間違いとは言い切れない。
深く考えるほど決まりきった答えは見つからず、どこまでも広がるグレーな世界。
その問いに向き合えば向き合うほど、自分の人生を重ね合わせて思考してしまう。
この考察のプロセスに人は熱狂し、他人の考察から新たな知見を得、また自分を深めてゆくのだろう。
そして、この問いのデザインが、ちいかわは圧倒的に秀逸なのである。
親神様の思召を尋ねてゆくプロセスもこれと似ているのではないだろうかと、映画を見終わってふと思った。
もちろん、親神様の思召は、原典によって明確に示されている。
しかし、答えが一つの説明文として完結せず、人間が解釈する余白が残されている場合も多い。
明治20年の神人問答を振り返ってみると、先人たちは明確な答えが見当たらないように見える親神様からの問いに、真摯に向き合った。
ある人は神様の仰せ通りにおつとめを勤めようと言い、またある人はおやさまの御身を気遣うあまり、おつとめを勤めることを懸念した。
どちらの意見も親を思う真実の発露であったが、こちらを立てればあちらが立たず。
熱のこもった談じ合いが毎夜毎夜繰り返され、先人たちは自らを深めていったのだろうと拝察する。
世界をろくぢに踏みならすのに扉を開くのか、閉じるのかとの問いかけも、扉とはいったいなんなのか、開いたらどうなるのかなど誰も答えが分からない中を通られた。
そして、まさかのお隠れに愕然とされたが、答えの正誤よりも、出した答えを正解とすべく、さらに神様の思召を求め、胸襟を開いた談じ合いを重ね信仰を磨いてこられて今がある。
陽気ぐらし世界の実現を目指して歩んでいる。
しかし、正解の見つけにくい現代を信仰者として生きる意味とはなんなのか。
信仰者として向かう先にはなにがあるのか。
この答えなき問いが熱を生む。
お互いの信仰をぶつけ合うところに熱狂が生まれる。
ちいかわ考察勢のように、自らに問いを向けることで、信仰にも熱が入るのかな。
(西岡寛麿)