教祖140年祭に向かう年祭活動の2年目も終盤を迎えようとしているこの時期、一足早く旬を迎えたものがある。
第1000期を迎えた修養科である。
その歴史は、昭和16年4月に開設され、令和6年9月までの修養科修了者数の累計は、674,389人を数えるとの事。
去る9月の『全教会布教推進月間』の間、普段、教会を預かる身ながら胸をはれる程、布教活動などできていないが、路傍講演をする機会に多く恵まれた。
いつもであれば、何を話せばいいのか悩んでしまうが、幸いにも今回は、旬のお題がすぐに浮かんだ。
『修養科』についてである。
教理的なことについてはほとんど触れず、修養科をアピールすることに重きを置いて話をさせていただいた。
結果、第1000期に修養科生をご守護頂けたとなればいいのだが、そんなにこのお道は甘くない。
修養科も以前と比べ志願者が少なくなったと耳にする。
理由は、色々と考えられるだろうが、また以前と同様に、もしくはそれ以上に志願者が増える時代が近い将来来るのではないかと真剣に考えている。
現在、時代の病気と言われているこころの病。
日本人の約30人に1人は、何かしらのこころの病を抱えているという。
このこころの病を抱えた方にとって、修養科での生活は、とても効果的ではないかと推測する。
詰所での
①規則正しい生活、毎日詰所から修養科まで往復歩く
②適度な運動、身上や事情等で
③困っている方に親身になって関わってくれる多くの人達の存在。
修養科に行けば、当たり前の日々が、心のバランスを崩した方にとっては、元の生活に戻る一助となるのではないか。
修養科生活がこころの病へ与える影響についての研究をこれまで聞いたことがないが、もし、おぢばにある天理大学で肯定的な研究結果が存在するならば、そういった方々を修養科へお誘いしやすくなるにちがいない。
私がお預かりしている教会では、毎年、心定めを修養科生1名と書いて上級にお供えしている。
残りの年祭活動、またそれ以降もぶれずに1名の修養科生をご守護頂けるよう、ひのきしん、にをいがけ、おたすけに励みたい。
最後に先月同じ支部内の先生がお出直しになられた。
自教会の教会長の職を息子さんに譲られた後、上級教会へ夫婦で入り込み、役員として勤められていた先生、末期のガンと診断され、修養科を志願された。
他の修養科生や詰所関係者から「先生」と呼ばれるのを嫌い、代わりにたくさんの方からおさづけを取り次いでもらわれたらしい。
また、歩くことにこだわりを持っておられた先生、病状が進み、途中で修養科を辞退されるまでご自身の足でゆっくりゆっくりとご本部、また、修養科まで通われたようだ。
ここからは、勝手な想像になるのでご容赦願いたい。
先生は、本当に自身の助かりだけを願って修養科を志願されたのだろうか。
先生の修養科でのエピソードを耳にすると、お道の信仰者として人生の“最期”の通り方を無言のお仕込みとして、若い世代に伝えて下さっていたように思えてならない。
もし、そうであれば、その先生の狙いは、しっかり伝わっている。
『お道の教えを伝える人ではなく、伝わる人へ』親神様にかりものの体をお返しするその日まで、何とかお道の教えが伝わる“にをい”を発することができる道の信仰者になりたい。
先生の魂が早く新しい衣に着替えられ、また、生まれ変わられることを切に願い、この度の拙文を終えたい。(Pぇ~)