親神様の十全の守護の中に「たいしょく天のみこと」があります。
その働きは「出産の時、親と子の胎縁を切り、出直しの時、息を引きとる世話、世界では切ること一切の守護の理」と教えられます。
このような教えを聞いていなければ、生活の中で「切ること」と「神さま」を繋げて考えることはまずないでしょう。
逆に、毎日の暮らしのなかで何か「切ること」を見つけたとき「ああ、これも神さまのお陰だ」と思えることが、この道の信仰の醍醐味だと思います。
たとえば「切ること」といえば、まずハサミや包丁が思い浮かびます。
私が最近ハサミを使ったのは封筒を開けるときです。ハサミでスーッと封を切りました。
また、料理には包丁は欠かせません。
包丁の切れ味は、素材の味の引き出し方を大きく変えるそうです。
他にも、部屋の中を見渡せばいろいろと「切ること」が見つかります。
たとえば、イスや机など木製品は、山の中から木を切り出して製材・加工することで家具になります。
つまり、木を「切ること」で作られています。
あるいは鉄筋コンクリートであっても「切ること」がなければ、建物は出来ないでしょう。
「世界では切ること一切の守護の理」とは、私たちの暮らしはさまざまな場面で神さまの「切る」働きを頂くことによって成り立っていることを教えて下さっているのだと思います。
さて、そのような中でも、私たちの身の内については「出産の時、親と子の胎縁を切る」と教えられています。
「胎縁を切る」とは単にお母さんと赤ちゃんを繋ぐへその緒が切れるということだけでなく、「をやこでもふう/\のなかもきよたいも. みなめへ/\に心ちがうで」(おふでさき5号8)と教えて頂くように、胎縁が切れて、それぞれの「心」を持たせてもらえるということでもあるのでしょう。
誰しも母親の胎内から生まれたことを思えば、私たちの人生は神さまから「切る」働きを頂くことで始まるといえます。
また「出直しの時、息を引きとる世話」とも教えられています。
命の始まりだけではなく、終わりに際しても「切る」働きが必要だということです。
お道では、死は「出直し・生まれ変わり」と教えられていますが、出直すためにも一生涯の区切りとして一度「息が切れる」必要があるということです。
思えば、今日という日も、朝起きる(切る)ことから始まります。
いつまでも眠くて起きられなければ、一日を始めることができません。
また反対に夜にいつまでも眠ることが出来なければ、明日がやってきません。
私たちは神さまから「切る」働きを頂くことで今日という日を迎えることができ、一日を全うすることができます。
ところで「切る」ためには用意周到な準備が必要です。
何でもかんでも切ればいいという訳ではありません。
ハサミや包丁は使い方を知らなければ致命傷を与えます。
神さまは、そのようなリスクも引き受けて「切る」働きをして下さっているのでしょう。
慎重かつ大胆なお働きです。
そう思えば、私たちが何か決断するときには、そのような神さまのお働きにもたれて「思い切る」のがいいのかもしれません。(nibuno)