【信仰随想8】人助けとは 奈良支部長 向正訓

肩に痛みが出て、思うように腕が上がらなくなってきました。

医者に行くと、放って置いたら大変なことになると言われ、何も分からぬまま、手術をしてもらいました。

たった一週間ほどの間でしたが、入院して気が付いたのは、「人間は病むと、こんなにも孤独を感じるんだ」ということでした。

誰しも、大きな怪我や、病気で苦しんでいる人を見ると、「痛そうだなぁ、辛そうだなぁ」と思いますが、でもそれは、そう想像するだけであって、本当にその方の痛みや辛さが分かるわけではありません。

痛みや辛さというのは、自分に降り掛かって、初めて分かるものです。

だからこそ自分自身が病むと、いつも感じた事の無い、孤独感を感じるのではないかと思います。

入院中、病んでいる人を大勢目の当たりにして、「世の中にはこの人達以外にも、苦しんでいる人や、悲しんでいる人が沢山いる」と気が付きました。

今までの自分中心の生き方を反省し、もっと人に優しく、人のために生きていかねばならないと思いました。

他にも気がついた事があります。それは自分ひとりで出来ることのありがたさです。

手術後数週間は痛さのあまり、利き腕の右手をほとんど動かせずにいました。

挙げればきりがありませんが、日常生活の中では、片腕だけではできないことが、山ほどあります。自分ひとりで出来ないことは、人に頼まなければなりません。

この人に頼むことが、とても面倒くさく、とても悲しく、とても辛いのです。

田舎に暮らしているお年寄りが、免許証を手放すことができないのが、なんとなくわかった気がしました。

ちょっとした買い物や、外出を、いちいち人に頼むのが辛いから、自分で運転してしまうのです。

そんなことを考えていたら、頭の中で教祖のおっしゃった「人を救けて我が身救かる」の意味を取り違えていたことに、気が付きました。

人を救けるということは、病気をご守護いただいたり、怪我を直してもらったりと、そんな事ばかりを考えていました、しかしそんな大それたことではなく、困っている人の用事を手伝ってあげたり、代わりにちょっとしたことをしてあげることなのです。

病院に車で送ってあげたり、買い物をしてきてあげたりと、やる気にさえなれば、誰にでもできることを、させてもらえば良いのです。

出来れば相手から頼まれる前に、こちらから先に気がついて、声をかけてあげられたら、最高なんです。

ずいぶん昔の出来事です。熱心な年配の会長さんと、大きなお風呂屋さんに行きました。

並んで体を洗っていると、その先生は体を洗われた後、椅子にシャワーをかけ、使った手桶を洗いそして鏡もちゃんと拭いて、最後にそこで一礼をされました。

普通の人からは、なんてマナーのいい人だろうと見えたに違いありません。

しかしそうではありません。この方は只々自分が使わせて頂いたことに感謝し、次に使う人の為に綺麗にしておかれたのです。何気なくされているこの行いも人助けに繋がるのだと思いました。

「人助け」と聞くと大きな意味に捉えて、自分には無理だと思いがちですが「人助け」は自分の周りにいる人達に気を配ることから始まると思うのです。