【信仰随想7】教祖の御心を糧に 南奈良支部長 山澤 登

『逸話篇』の「一二三 人がめど・・か」では、「教祖は、入信後間もない梅谷四郎兵衛に、『やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。』と、お諭し下された。」とあるように、自分の生来の癖を取るというのは、なかなか取れるものではない。

私も以前は、履歴書を書く時の短所には短気と書いた覚えがある。

結婚するまでは、なかなか腹立ての自分であったが、結婚してからは少しは癖が取れたかと思ったある日、妻が想定外の高価な鍋を買った。

激高した私は、直ぐに怒りを止められず、妻との口論となり、大喧嘩となったが、直ぐに可愛い子供に神様からしるしをお見せいただいた。

三歳になる次男がベランダで転び、頭に五針ほど縫う傷を負った。

それ以来、子供の前では夫婦喧嘩はしないように心掛けた。

カッと来るようなときは、『逸話篇』の先人の場面を思い出し、自答した。

お陰で持ち前の短気は次第になくなりつつある。

また、毎月の月次祭のおつとめを長年つとめてきたことも癖性分を取る一助に繋がっていると半世紀近く経った今、確信が持てる。

私は八人の子供をお与えいただいている。

まだ、教会も預かっていない、結婚して十二年ほど経ち、子供の六人目が二歳頃のことである。

おつとめの大事さを所属の会長様から常日頃から聞かせていただいていたので、妻と二人で相談し、子供達も教会の月次祭のおつとめに一緒に参拝させようと話が纏まった。

当時は小学五年の長女を頭に、天理小学校に四人通学していた。

月次祭の当日はおつとめが終わり次第、遅刻して登校することになり、授業の終わる頃を見計らって教室に入る有様であった。

こういうことが三年近く続いたと思うが、いつの頃からか、おつとめで鳴り物を担当させていただくようになり、男の子達は小鼓をマスターしていた。

「あの頃は遅れて教室に入って行くのが、恥ずかしくて嫌だった」と最近述懐してくれた次女も、今では子供を学校に送り出したのち、舞鶴から車を飛ばし、毎月欠かさず月次祭を共につとめてくれている。

教祖百四十年祭に向かう三年千日の一年目、少しでも教祖の御心に近づかせていただこうと、今年度の活動計画に「教祖のご足跡を辿る」勉強会を計画し、第一回目が八月例会日に実施され、「記念建物」を見学した。

学生時代にも見学をしたことはあるが、今回詳しくお屋敷の変遷やそれぞれの建物に教祖が滞在された期間など詳しく認識することができた。

特に明治十六年陰暦十月二十六日未明、刻限が来るのを待って「中南の門屋」から「御休息所」に移られ、現身をおかくしになられるまでの期間がちょうど三年三月であることは、元初まりの九億九万九千九百九十九人の子数の宿し込みを受けたいざなみのみことが、元のやしきに留まられていた期間と一致する。

年祭までの三年千日もすでに、一年近く経とうとしているが、残された期間、最後のご苦労をはじめ、どのような困難な中でも、陽気に勇んで通られた教祖の御心を糧にして、勇んで年祭活動に取り組んで行きたいと思っている。