【信仰随想4】こころに花を 御所支部長 長谷川理一

自教会の庭のハナミズキが今年も少しではあるが咲いた。

この木は、長い期間花芽を付けなかったので、もう根から切って終おうかと悩んでいたが、この数年前から少しずつ花を咲かすようになったのである。

花が咲かず悩んでいた頃、ある先生から聞いた三代真柱様のお話を思い出した。

「花にも旬があるんだよ、同じ花でも咲く時もあれば咲かぬ時もある。毎日毎日、肥(声)をやり丹精していれば、その時その時に合った旬に花が咲くんだよ心配することはない」というお話である。

私は、それ以来、毎年ハナミズキが咲く頃に今年はどうかなあと眺めるのが楽しみになり、年ごとに一輪また一輪と花の芽が増えていくたびに、このお話を思い出すのである。

(前略)「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで。」と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。 教祖伝逸話篇一九八「どんな花でもな」

人も花もみな同じである、丹精していれば必ず実るのだから声(肥)をかけ続ける事の大切さを感じたのである。

今年のゴールデンウィーク、お茶所前のピッキー広場でご視察されている真柱様をお見かけした。

ご挨拶させていただくと、「何処から来られましたか?」と声をお掛け下さった。

その一言が、心に温かく沁みわたり何とも言えない感激と元気を頂いた。

教祖伝逸話篇一四六「御苦労さん」、一九五「御苦労さま」の中にも教祖の一言で感銘しあるいは改心し入信をしたとのお話がある。

へだてない、お慈悲の深い教祖だからこそであるが、その時、この逸話を思い出したのである。

余談ではあるが、娘と孫と一緒に記念撮影を撮らせていただき有り難いかぎりであった。

では、へだてなく優しい温かい一言を掛けるには、どうすればいいのだろうか。

コロナ禍で人との会話も薄れ、ましてやマスクで顔の表情もわからない生活が続く中で、言葉(声)笑顔の大切さを改めて感じさせていただいたのである。

今、教祖百四十年祭を迎える三年千日の旬に、仕切って心を成人させる為に、ひながたの道がある。

「どのような困難な道中も、親神様のお心のままに、心明るくお通り下された。(諭達第四号)」

日々の生活の中で一歩一歩、自分自身がこころ明るく今できることや、ちょっと努力すればできることを勇んで行うことで、心が澄み自然と温かい声が出るのではないかと思う。

心さいすきやかすんた事ならばどんな事でもたのしみばかり(一四・五〇)

やがて、心がどんな時でも楽しいな嬉しいなと成ってくるのだと思う。

「親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである。(諭達第四号)」とあるように、先ずは身近なところから笑顔と共に温かい声(肥)を映していくことで、一人また一人と和(輪)が広がっていく。

そして、「必ず成る程の日をお見せ頂ける。」とのお言葉通り、一人ひとりの旬に、心に花が咲き、ご守護をお見せいただけるのではないだろうか。

目標めどうである「陽気ぐらし」の大輪が咲くように。

教祖百四十年祭の年、庭に満開のハナミズキを楽しみに。