諭達の中で「ひながた」という言葉が何度も出てきます。
一口に手本ひながたとなればどうしても姿かたちを真似ることを考えてしまいますが、教えていただく「教祖のひながたの道」を、思案して私達にお見せ頂く、その場面場面で使う心が大事では無いかと思うのです。
教祖が厳しい艱難苦労の道中の中でお使いになったお心に目を向ける事が大事なのだと思うのです。
親神様は人間に心の自由をお与え下さり、その心の使い方一つで陽気ぐらしが出来るのだと、心をどのように使えば陽気ぐらし世界が実現するのかをお教え下さったのが、教祖の五十年に亘る「ひながたの道」ではなかったのでしょうか。
心の自由とは誠に有難いものであります。
陽気ぐらしにつながる心の入れ替え、切り替えが出来るように万人に平等に貧富の差も、人種の差も、男女の差も、年齢の差もなく平等にお与え下されています。
教祖ひながたを味わう時、教祖の道すがらを自分に置き換え、そうすれば、ひながたの中に親として子供の幸せを願う者の喜びが見えてきます。
それを感じた時に教祖が尚一層尊くなり、教祖のようにどんな中も喜んで通れるようになりたい、あんな心が使えるようになりたい、と憧れます。
「ひながたの道を通らねばひながた要らん。」と仰せいただく「ひながた」とは教祖のお通りになった動きだけではなく、道中にお使いになったお心を真似ることだと思うのです。
今から三十年以上も前に教会で青年をしていた頃、前会長から「私たち信仰者は有難いなあ。陽気ぐらしをする為に「教祖ひながた」という公式を教えてもらっている。
日々の暮らしの中で陽気ぐらしにつながらないような心を使ったら、親神様から軌道修正のための身上・事情という応用問題が出され、その問題に対して私たちは銘々の悟りという計算式を立てて答えを出すのや。
ただしその答えは「よろこび」でなければ親神様・教祖には受け取って貰えないんだよ」と仕込んでいただきました。
当時の私は公式としての「教祖ひながた」と、答えの「よろこび」とがつながっていませんでした。
そして、月日が経ち、いろんな体験をする中で「教祖ひながた」の中に一貫して流れていた「よろこび」に気づくことができたのです。
以後、どんな出来事に出会っても、答えが「よろこび」と決まっているので、自分に不都合が起こってきても「よろこび」に向かって頑張ることが出来るようになりました。
ときには時間が掛かることもありますが、方向が決まっていたので気持ちは楽です。
仮に姿かたちの上にご守護が頂けなかったら、次の思案を考えれば良いのです。
又、神様からのメッセージを、読み取れたのかどうかの答え合わせをするのが楽しみになってきました。
そして、昨年の五月に病院で脊柱管狭窄症の手術をうけました。
その後の通院治療の際に、担当医から歩行困難な姿からパーキンソン症及び症候群の疑いがあるというので検査をすることになり、天理よろづ相談所病院の脳神経内科でMRIの検査を受けましたが、脳には異常が見当たらずひと安心でした。
こんな風に次から次へと身上を通してお仕込みを頂いておりますが、教祖ひながたのお陰で、身上・事情に対する不安はなく、本当に天理の教えはありがたいな、すべてをプラスにとらえて喜びにつなげていけるのですから。
勇んで通りたいと思います。