先述の尾張浜主は、仁明天皇の御前で百十三歳の高齢でもって「和風長寿楽」を舞った、という記録が残っている。
この尾張浜主は熱田神宮の伶人で、当神社には尾張浜主愛用の琵琶が残っているようだ。
また、大戸清上は清上楽などを作曲している。
この頃からわが国の人々による作曲改作が盛んになってゆく。
平安時代中期になると、宮廷の年中行事が整備されると共に、雅楽も四季折々に演奏されるようになり、天皇家や貴族の教養としての音楽になってゆくのである。
平安時代中期によく知られる源氏物語や枕草子など女流文学が盛んに愛読されその中にも雅楽の演目や感想などが誌されてゆく。
この間、左右両部制が成立し、左方を唐楽、右方を高麗楽と定まっていったのである。
そして、競馬、相撲、則弓などの勝負事の勝敗時に雅楽を演奏したりするところから、番舞の思想が生まれてきた。
更に、日本に伝わった楽器は二十種類ほどあったが、御遊の記録を収めた「御遊抄」などには貴族の好む楽器として笙、篳篥、笛、琵琶、筝、和琴など数種類になっていったのである。
さて、管絃の遊びを「御遊」というが、御遊は年中行事や通過儀礼に付随して行われ、それ以外でも花や名月などの観賞の際などにも盛んに行われるようになっていった。
源氏物語絵巻 若葉三にも桜の下で管絃の遊びをする光源氏や住吉物語絵巻に月を愛でて管絃遊びをする姿が描かれている。
平安中期に、管絃に堪能な人物として知られているのは、貞保親王、敦実親王、その子源雅信、その子源時中、源博雅、藤原公任、藤原保忠などが挙げられる。
中でも、管絃仙・管絃長者といわれ、新撰横笛譜を編纂した貞保親王や蝉丸に琵琶の秘曲を習ったとされたり、鬼に奪われた琵琶の名器・玄象を取り戻したり、鬼と笛(葉二) を取替えたりと逸話の多い源博雅は特に名が知られている。
源博雅も村上天皇の勅命により新撰楽譜(博雅笛譜)を編纂している。