「信仰は感激」
                                  主事  北出雄三

教祖百二十年祭に向かって、諭達を御発布され、地方講習会、道の先達大会更に、西境内地拡張土持ひのきしんと、私達の成人の上に、微に入り細にうがって年祭への機運を高めようという心配りに、何程お応え出来ているのかと自責の念に駆られる。

前真柱様は、「信仰というものは、一種のやはり感激であり、感動であります。まず感動を呼び起こすことこそ、勇んだ活動を生み出す元となると言っても過言でないでしょう。」と仰せ下さいましたが、人に感動を与える姿とは、諭達にありますように、自らが教えに基づく生き方を日々実行すること、おたすけに真実を尽くすこと、それ以外にないと思うのであります。

一時の大きな事は、努力をすれば遣り遂げることが出来るが、毎日毎日こつこつとおたすけに歩み続けることは、大変難しいのであります。

部内の布教所長が、喘息で入院されたので早速おたすけに行かせて頂き、おさづけを取り次がせて頂こうとすると、隣の病人にも取り次いで欲しいと言われたのであります。その方は、内臓疾患で入院されたが、入院中に手の神経が切れて、指が自由に動かせないとのこと。医者から糖尿病が原因で全身がボロボロになっているので簡単には治らないだろうと言われ、一人暮らしで高齢であるので、悲観され泣いている姿に、何とかたすかってもらいたいと、自分の身上も然る事ながら、酸素マスクをかけ、苦しい中、おたすけを願うその布教所長の姿に感激され、私のような者でも人だすけは出来るでしょうか、と言って心を定め、車イスでおぢばがえりをされているのであります。

この教えは、心の入れ替えであるとお聞かせ頂くのでありますが、心の入れ替えが出来るのは、自分自身の心だけであります。人の苦しみ、悲しみ、悩みを我が事として、人をたすける心にこそ、感動を与える姿があり、心を替えるキッカケとなるのではないでしょうか。

自己中心の心、物の考え方が、不平不満不足を引き起こし、世の中の災いの原因となるのでありますから、慎みの心で、お道のすばらしい姿を伝え、この一年、をやに喜んで頂けるようにつとめたい。


掲載:立教168年4月号