「心定めは目的ではない」
                                  主事  吉田 孝敏

年末になって真柱様宛に「心定め」を提出する頃になると、心定めのことが非常に大きく見えるのに、日にちが過ぎると、行事や教会のご用も次第に増え、身辺の雑事にも心をとらわれているうちに、あっという間にまた年末が迫ってくる。

そして、多少歳をとってきたせいか本当に一年が早いなあ、などと、顔を見合わせて話すことが多くなってきたように感じる。これは正直な話である。

「喉元過ぎれば熱さ忘れる」というが、今年はぜったいにそうなってはならないと自分に言い聞かせている。欲を忘れることは大切だが、年頭に思ったこの決心だけは、今年の暮れまで忘れないようにしたい。

そこで、今年部内のみなさん方とも話し合っているのは、三日坊主にならないための工夫である。
最初は意気込んでいても時が経てばその場の心がゆるんでくるのだから、なんとかゆるまないように、いやゆるみかかったらまた意気込みを取り戻す機会をつくるために、一年単位を一ヶ月単位で十二回繰り返してみたらどうなるだろうかと、工夫と挑戦の企て中である。ちょっと忙しくせっかちのようだが、泣いても笑っても後一年、年祭活動最終年を悔いの無いようにするためには仕方がない。

結果がどうなるかは年末にしか分からないので、今はせめてそういう気構えで、奈良教区のみなさん方に負けないように、共に勇んで仕上げの年を歩みたいと思っていることをお伝えしたい。

その心定めの実行を下支えするのは、何と言ってもにをいがけ・おたすけ活動の活性化であろう。

現在、布教部で進めている「にをいがけドリル」は、にをいがけに活用していただく教区・支部・教会が増え、今年はさらに広まりそうだ。
が、私の住む橿原支部はこれからである。

しかし、にをいがけドリルを経験したところを増やすのが目的ではなく、ドリルを活用してにをいがけを続けている所を一箇所でも多く作るのが目的なので、遅れて出発しても続けることで、十分遅れを取り戻すことができる。

目的をしっかりと掴むことは何事においても大切である。

にをいがけ・おたすけの目的は心定めの達成ではない。心定めは目標であって、その目的は人をたすけることにある。世界の人をたすけたいと願われる教祖の親心を一人でも多くの人に伝えて、その実現のために素直な心で努力を重ねることがにをいがけ・おたすけとなる。そういう通り方を心に定めて一年忘れずいそいそと歩みたい。


掲載:立教168年2月号