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| 「低い心で・・・」 | ||
| 主事 植田平太郎 | ||
先日、本部での講習会を受講した。真柱様のお言葉がずしりと応えた。教祖百二十年祭の仕上げの年を前にして、あまりに情けない成人の出来ていない自分の姿に愕然としてしまった。 自分なりには年祭への歩みを進めてきたつもりだったし、やってきた筈であった。 しかし、それは親の目から見れば到底安心出来ないレベルの事であって、今一度自己点検をと心に誓い家路についた。 家族で話し合い、今すぐ出来る小さな事からでも早速実行をと決めた。家族が一緒になって考えを聞いてくれたのは頼もしくもあり、また子供達もいつのまにかすっかり成長したなと感じた。 親々の徳の上にあぐらをかくのではなく、ひながたを忠実に辿る事が自分自身の徳積みへの近道と教えて頂いた親の思いを生かしたい。それには表題にもなっている、感謝・慎み・たすけあいの実行こそが間違いのない道であろう。 さて、我々は親神様への感謝という言葉をよく口に出す。しかし、私は身近な人に対する感謝こそ大切なように思う。 親、妻、子供・・・もっとも身近な人たちへの感謝の気持ちはどうだろうか。一見簡単そうだが、心からともなると怪しいものである。 少なくともこれを忘れず実行出来れば、争いや些細な腹立ちの大部分はなくなるはずである。 相手への思いやりがなければ感謝などおぼつかない。 物があふれる現代にあって、慎みもまた大変難しい。 今、貧に落ち切られた教祖の如き生活をしている人は希有であろう。 結構はありがたいが、「欲にきりない泥水や」とお教え頂くように、今あるお与えをありがたいこととして喜ぶことはそうたやすい事ではない。 慎みは単に物だけではなく、心の慎みこそ重要だが、これがまた大変難しい。 常に自分中心の立場で物を考え、都合の良いように物事を判断し、ともすれば何もかもを時代や社会のせいにしてしまっているような気がする。 親神様の御守護を感じ、物を、命あるものを大切にし、何よりも心の慎みを持たねばならないだろう。 そこから段々と世界一列兄弟の意識が生まれ、自然にたすけあいの心が生まれてくるだろう。 ともあれ、低い心を養い、理屈抜きで最後の一年を通り切って、年祭の機運を高め、をやにご安心して頂きたいものだ。 掲載:立教167年12月号 |